センセイ
2021/12/12 00:51 [35]
(はじめは連日の豪雨。洪水に地震、旱魃。もはや神の怒りと称する他ない天変地異がひと騒ぎを終えた頃には、男はひとりきりだった。どんな術で生き残ったかを、どれ程の歳月が流れたさえ、正確なところは覚えてはいない。そうでなければ、自分以外の生きた人型を見かける機会さえなく、ただ眠って起きて、かろうじて生き延びる生命線を探すだけの生活に、頭の方が可笑しくなっていただろう。)……──、(差し込む光に意識が覚醒する。その日目覚めた場所は、かつては栄えていただろうビル街の、とある元建物の一階部分だ。割れたガラス戸を潜った先は罅割れた亀裂があちこちに走り、絶妙な傾き具合が今にも朽ちかねない襤褸ではあったけれど、徐々に寒くなってきた暗闇の時間をしのぐ事と、まだ形を保っているソファが寝床代わりになりそうな利点が勝った。それを決めた時にさて、“同伴者”がなにかを言っていたのだったか──働き切っていない脳裏を回しながら、人目を気にしない大あくびをしながら伸びきらない背筋を鳴らした時、ビキと走った痛みに反射的に眉根に力が籠った。)嗚呼、こりゃ…だめだな。寝違えた。なァ…──(ソファから足を下ろして背もたれに寄りかかりはしたが、傾けた角度から持ち上がり切らない首筋を冷えた片手で摩る。それから、未だしょぼついている眼の視線だけで、差し込む光頼りに辺りを一瞥した。探しものは“同伴者”だ。者という言葉は適切かはわからない。自分が生き延びた年月は分からなくても、そのものが現れてからはおおよそ四季をひと回りする事は、交わす会話の中でも認知していた。 とうとう消えたか。それとも案外近くにいるか──短く呼びかけた先で目的を見つける事が出来たならば、おはようの挨拶よりも先にしゃがれた声はのたまうのだ。)首。見てくれよ。(彼女──この言葉も適切かは分からぬとはいえ──に、しゃくるにも痛む部分に誘導するよう、手で指し示してみた。治してくれとも、摩ってくれとも言わない代わり、「叩けばマシになるかね。」と適当な言葉を口吹いている。)
2021/12/12 00:51 [35]
ビーチェ
2021/12/12 15:32 [53]
(ねえセンセ、煙草は身体にわるいのよ。知ってる?──それが、いまから一年ほど前、あなたの目の前に現れた毛玉の第一声だったろう。口がないくせにやけに透き通って響く声色が、高いのか、低いのか、ダレカを模しているのかは、毛玉の知るところではない。ビーチェと呼びなさい、とえらそうにのたまった異形は、その日から、あなたの視界の隅っこでぽよぽよと跳ねたり転がったり、ぶつかったり擦り寄ったりと忙しない。今日はあそこに行ってみましょう。川で水浴びをしたいわ。たまには肉を食べるのはどう?そろそろ新しい服を探さない?い、今のもまあ似合っているのだけどね、うん。──それは、あなたにどう扱われたとしても、雨の日も風の日も、飽きずラジオのように話し続けた。冬の気配が忍び寄ってくる時分、あなたが襤褸を寝床と定めた日も、いつものようにうるさかったろう。「あら、素敵な宮殿じゃない!一晩と言わず永遠に眠れそう!……これは皮肉よ?」「きゃー!蜘蛛!でっかい蜘蛛がいたぁ!」「えぇ……ソファで寝るの?身体ばきばきになっちゃうわよ?」それでも、散々飛び跳ね回った最後のさいごには、横になったあなたの上にのっそりと乗っかって、「今日もたのしい一日だったわ、おやすみなさい。センセ」毎日欠かさぬ就寝のあいさつを、そうっと囁いた。───毛玉は、あなたの意識が浮上するのと同時に、この世界に生まれ出る。今朝もそう。己を探す呼びかけに応えるよう、もさりと毛を揺らして、あなたの隣に現れた。手はないから、ぐり、とあなたの腕に身体を押し付けて自分の存在を知らせる。ふりふりとうしろで動くしっぽは、寝起きゆえか少しおとなしい。それから、首筋をおさえてつらそうにしている姿を、案じるように窺う間があって。)……もう。先に”おはよう、今日も最高の毛並みだね”でしょ。(呆れと冗談の入り混じった声と共に、ずりとあなたに背を向ける。にゅっと少々伸びた尻尾が、首にぐるりと巻きついて、とりあえず固定せんとした。)すごく痛いの? 無理に動かさないほうがいいわよ。(やわらかい枕が必要ね、と嘆息するみたいに上下に動いた毛玉は、犬や猫や、人と同じ温度に感じられるだろうか。)
2021/12/12 15:32 [53]
センセイ
2021/12/13 06:30 [66]
(玉を転がしたような清かな声色をはじめて聴いた時。驚嘆よりも関心よりも先に、昔は何かをしまっていた筈の空っぽの棚を見つけたようなある種の懐かしさを、確かに男は感じ取っていた。ついぞその答えは見つけられず、今ではその声色の持ち主は他でもない彼女との等号で結びつけている。声色は流暢なのに、どこから発しているのかも分からないかたちの珍妙なこと。昨日の記憶だってすぐ手放しがちな男は、しかし、その出会いに沸いた数多の感慨だけは未だに色褪せない記憶として残していた。世界が“こう”なってから、犬や猫の類──所謂愛玩的な小動物を見かける機会はない。飼った事はなかったが、いつか飼ってみてもいいと思った事くらいはあったかもしれない。だから、四つ足動物があやふやな自分から産み落とされたらしいものが、このような姿を形作って見せている事には、自分にも一因があるのかもしれない。あくまでもの可能性の話だ。邪険にする訳ではなかったが、きちんと向き合っているかと言えば否である接し方。煙草は未だ止められていないし、教えてもらった名前を呼べた試しもなければ、その時折次第で「おい」や「君」、それから「けだま」に「もふもふ」やらと、思いついた言葉で呼んだ。それでも、自分よりもうんと数の多い声色を聴きながら、一時こそ話し相手もなく、発語への執着さえ失いかけていた男が、徐々に「ああ」「いや」「ウン」以外の言葉も発するようになったのは、紛れもなく彼女のおかげでもあった。──「皮肉も言えば本当になるさ」「ちょっかいを掛けなきゃ大人しい先住民だよ」「なったらその時に考えるか」 そうして、おやすみの代わりに、その曲線をひと撫でしたのが眠りにつく間際の記憶。そして、起き抜けに存在を知らせてくれるようなふわふわも、驚くでもなく空いていた片手の手の甲に摩るくらいには、その在り方は馴染んでいる。)そうやって、君が先に言ってくれるとな。嗚呼、俺が口に出さずに済んだなァ……って思う訳だ。(触れる方角を見ようとしたが、やはり難儀した。「ちょっと昨日よりモサモサな気がするな」そんな感想を付け足した間にも動く気配から程なく、首筋を伝うあたたかな感触には、ほうと短い息が零れた。)覚えている限りではいちばん痛い…、嗚呼、でも、マシになった。……ような気もする。(何せ痛覚さえ忘れる脳だ。今日の痛みだって数日後にはサッパリ忘れているのだろう。自ら押さえていた手をそろりと外して、それから尾っぽの毛並みに沿うよう触れてみようとしながら。先ほどよりも心もち、背を張れている気持ちの中で、助言通りに身を動かす事もしないまま。)……枕になってくれるって言っているのかい。今日はもう、二度寝して過ごすか。
2021/12/13 06:30 [66]
ビーチェ
2021/12/13 21:31 [74]
(ある日突然生じた毛玉にとっては、あなたこそが世界の全てだ。視界に映る景色が荒廃している理由も、あなた以外の人類がおそらくみな死に絶えてしまった事実も、あなたが一人で淡々と生きてきた味気ない日々も。あなたが語らずとも、毛玉は理解しているようだったろう。自分に目鼻口がないワケも、なんとなく分かっている。ただ、自分が生まれたワケについては、あえて何も話さなかった。そして毎度、適当に呼びかけられたなら「私はそんな名前じゃないわ!」と文句をたれながらも、あなたの声を無視するような真似はしない。怒ったりすねたり、いつまで経ってもあなたが煙草を止められなかったりしても、毛玉は毎日あなたの声が届く場所にいた。その感情は、声としっぽからしか読み取ることは出来ないだろうが、あなたからちゃんとしたいらえが返ってくると、わかりやすく機嫌が良くなったろう。忘れっぽいあなたと対照的に、これは良く物事を覚えている。壊れる前の世界の話も、時折紡いだ。あの店のあれが食べたいとか、そういう他愛もない内容ばかりだったけれど。──自分の言葉に少し皮肉が多いのは、あなたから生まれた毛玉だからだと思った。ふんすと不服げに息っぽいものを吐いて、それでも寝る間際、毛並みを撫ぜた手つきには満足したのか、おとなしく、彼の胸が上下するのに合わせて毛玉の背も上下したのだった。もちろん、翌朝になってこのおんぼろが宮殿に変わっていようはずもなく。自分があなただけの”ともだち”でなかったら、きっと埃アレルギーになっていたわと思いながら。)あのねえ、あいさつは双方向で成り立つものなの。……えっ、モサモサ!?(抗議するようあなたの手の甲にぐりぐりと身体を押し付けたけれど、付け足された感想にはがーんと頭上からたらいでも落ちてきたみたいに固まった。「だからもっと綺麗なところが良かったのよぉ」首に回したしっぽに意趣返しとばかりにキュッと少し力を入れて、べそべそと半泣きの声を響かせる。)……そんなに? お医者さんもいないんだから、身体は労らなくちゃ。ついでに私の毛並みもね。(あなたを心配する音に嘘はない。でも、自分の毛並みのことを考えて欲しいのもほんとう。ちゃっかりした毛玉は、あなたの手がしっぽに触れると「ふふっ」とくすぐったげな笑声をこぼして震えた。が、)──モサモサで枕になるのはいやっ! 首はあんまり動かさないほうが良いけど、日光はちゃんと浴びなくちゃ! ごはんも! 食べるのよ!(あなたの言葉に、はっと毛を逆立てて。しゅるりとしっぽを解くと再びあなたに向き直り、どすどすと腕にぶつかるだろう。)
2021/12/13 21:31 [74]
センセイ
2021/12/14 22:01 [87]
(断捨離をしがちなミニマリスト脳の男も、たまに思い出すという努力をする事はあった。過日、ぽわと跳ねた彼女が言葉にした店の事もそのケースのひとつだった。朽ちたある店を通りすがった時、此処には何があったのだったか──そんな小骨の引っ掛かったような思案が煙と共に燻るばかりで、結局自分の中から探すことは放棄してしまったのだ。看板はとうに剥がれて錆びついていたし、割れた硝子越しの店内は荒れ果てていて、晩を過ごす候補からも外したくらいだ。 だから、傍らからもたらされた言葉に欠けていたピースが嵌る感覚、そして味覚の懐かしささえ刹那に過る体験を、物珍しく覚えていた。──いっそ互いの身体の持ち主が反対だったら良かったのにな。溌剌として、記憶も確かで、四肢があればきっとしがらみもなく自由に飛び立っていけただろうに。嗚呼、でもそうしたら、自分は彼女自慢の毛並みを早々にだめにしていたかもしれない。──そんな束の間浮かんで、すぐに抜け落ちた思想さえ筒抜けだとしても、口にしなければ表面上は、一人と一匹は実になる話よりも、小さな欠片を積み重ねるような雑多な話が多かった事だろう。挨拶を端折るお叱りだって、もしかすれば何度も言って聞かされているかもしれない。その都度同じようにごねては、それから文字通りに身をもっての抗議にようやく「オハヨウ」だけは紡ぎ出して。)とは言ってもね。もはや埃が積もっていない場所を見つける方が難しい訳だから……ぐえ。(苦しい程ではなくても、掛かる圧につぶれた生き物めいた音が零れた。ずっと低い所を這う自分のテンションと対照的な、ふかふかの喜怒哀楽を鑑賞しながら再び眠りにつく──事はどうやら、お許しが出ない様子。ほどけた温かさを名残惜しむ間もなく、首を向けられぬから確証はないが、どうやら体当たりをされているらしい腕を除ける事も阻む事もない代わり、「揺れると響く…」とぽつねん呟いた後。)分かった、分かった。……なら少しだけ歩こうか、モサモサ。なにか飯ついでに……痛み止めでも見つかりゃァいいけどな。……後で毛並みは櫛で梳いてやるよ。(軋んだソファから、ようやく重たい腰を持ち上げた。首を動かしさえしなければ、痛みは心なし緩解している。伴う荷物はかつての所持品の革鞄ひとつだけで、残る一箱の煙草、非常用の缶詰、使い古した衛生用品幾点かに、毛並みを整えるようの櫛を何本か入れた非常に軽い荷物だ。痛めた反対の手に携えて、眩しさが差し込む方へと向かえば、空の高い所に日が照っている。)……そうだ。昨日見かけた店に戻ってみるか。厨房になら何かあるかもしれないな。(眩しさに目を細めながら、ふとした思い付きのように近くにいる筈の彼女に話しかけてみる。予定など無いに等しいから、彼女次第では思いつきも容易く翻すだろう。)
2021/12/14 22:01 [87]
ビーチェ
2021/12/15 22:29 [101]
(自分があなただったなら、なんて考えたこともないけれど、あなたと同じかたちをしていたら、と考えたことはある。まあでも、かたちがなんであれ、あなたの代わりに食べ物を探したり、寝床を見つけて整えてあげることは出来ないのだから、考えるだけ無駄だともわかっていた。毛玉はただ、忘れられてゆく端から積み上げていく。少しずつ、少しずつ。あなたが、ゼロになってしまわないように。挨拶は、そのためにも必要なものだ。ゆえにどれだけシンプルでも「オハヨウ」が返ってきたら、毛玉は満足げにもさもさとソファの座面を揺らして「おはよう!」と改めて元気よく響かせた。すぐに萎れたが。)うう、わかってるわよぉ……でもせめて、身体をちゃんと伸ばせるとこにしましょ? ホテルの廃墟とか探しましょ。(しおしおとした声は、あなたの口から潰れた蛙みたいな音が聞こえてきてもお構いなし。ややごわついた毛が、もさりとあなたの首元をくすぐったろう。キュッと絞めたりぶつかったり、喜怒哀楽の激しい毛玉は度々似たような行動をみせたけど、もちろん良くも悪くもあなたを害したりはしない。──その証拠に、首の痛みをぽつりと訴えられたなら、ぴたっと動きを止めて。じっと、まるであなたの顔を見上げるようおとなしくなる。寝違えのせいで、ない目に映るのはあなたの横顔ばかり。ちょっとさびしい。しかし、ソファを軋ませながらあなたが立ち上がると、「!!」ぴくりとまあるい毛玉が伸び上がった。)うん! 歩きましょう! 湿布なんかもあるといいわね。でもモサモサって言わないで! 今日だけだから!(最後はきゃんきゃんとわめいたが、しっぽはぶんぶんと散歩前の犬のように振れていたので、機嫌が上々であることは丸わかりだろう。そして「いつもより念入りに梳いてね」荷を持って歩き出したあなたの後ろをぽよぽよと追うさなか、もごもごと面映ゆげに付け足す。はしゃぎたいけど、あんまりはしゃぐと子供みたいだから我慢している、といった様相。その複雑な毛玉心が宿主に伝わっていたかは定かでないけれども──外に出て、透き通った青空が見えたならば、ぐぐっと伸びめいた動きをした。探索日和ね、とつぶやいて、そのまま飛び跳ねて移動をしたら、ぽよんとあなたの足にぶつかる。前を見ていなかった。)わぶっ……昨日の店? ──ああ! あそこね! センセも食べたくなっちゃった〜?(あなたの提案には一旦身体を傾けて唸ったが、はっと思い至るまでは早い。毛玉はしっぽを軽やかに振って賛同を示した。”何を”とは言わぬ、けれどなんだっていい。毛玉もいちおう”食べる”動作は出来るものの、実際に消化するわけではないので。あなたが食料探しに前向きでいてくれることが、なにより大事。ここからはいつものように、あなたのあとをついていく心算だ。)
2021/12/15 22:29 [101]
センセイ
2021/12/17 09:49 [121]
ホテルなあ……階段を昇らなきゃいけないのがなあ…(なにかにつけて、そんな言い訳をする男だ。今日日まで歩き回る範囲はそう広くもなければ、腰を落ち着かせるのも大抵一階層部分。「君も階段を跳ねるのは大変だろう、」そんな同調を過去にも求めたこともあったかもしれない。元気な毛玉が触れたところがこそばゆくて、笑い方なんて忘れてしまった咽喉は嘆息にも似た吐息をひとつ、ふたつと連ねて零した。 今度の答えは、彼女のお気に召したらしい。弾んだ声色も、腕に触れる空気で感じ取れた尾の動きも感情の動きを知るには分かりやすかったが、一方、その裏にちいさな我慢があることには気が付けないまま、「いつも入念なつもりだったけれどね」と一言。だれに似たのか、自分の悪い部分は似なかった彼女のことは、己の半身というより時に家族、時に伴侶。今この瞬間にはやはり、子どものように感じる存在だった。この星はくるったとはいえ、四季は未だ生きているのだろう。暑かった頃に比べて大分日の照りも和らいだように感じるが、それでも自分にはやはり多少堪えた。しょぼつく目頭を押さえながらの歩みはのろく、話しかければより減速したから、ぽんと当たってしまった彼女に謝罪はしなかった代わり、歩みだす足先を斜め前に向けた。彼女が追いつくならば、並び立つ位置だ。)食べたくなったというより、君があの話をしてから脳に纏わりついてくるんだよ。あるだろう? ああいう手合いは忘れるのを待つよりは、それこそ食べるか、もう金輪際食べられないと目で理解する方が早いからね。(大分寝起きの口も起きてきた。彼女がいうように、やはり日に当たりながらの歩行も多少なり、血流を動かす役割を担っているのだろう。通った道を引き返すかたちにはなっているが、そもそもこの生活になってからも、行動範囲をあまり拡げてこなかった男だ。見慣れたようで別物になり果てた日本の都心部が、徐々に朽ちていく垣根を渡り歩く。途中に転がっている、近くから崩れたのだろう瓦礫を互いの進路から遠のけるよう、軽く蹴って飛ばす音が、カツンと道すがらに鳴った。)このビルはそろそろ崩れそうだね。行動範囲から外そうか。……もう少し先……あの角は曲がったっけ。(首は動かさないで、向ける範囲は視線の高さだけ。昨日だか一昨日だかに歩いた道を、彼女にちらと問うてみながら。)
2021/12/17 09:49 [121]
ビーチェ
2021/12/18 01:16 [130]
(たしかに、この世界ではもうエレベーターも動かないから、高い建物は大変だ。でも上の階のほうが虫や獣のたぐいは寄ってこないから、下よりいくらか綺麗なはず。「センセが私を抱きかかえてくれたらいいじゃない?」同調を求めるあなたに返した声は、堂々と楽をする気満々だったろうけれど。──なにはともあれ、外に出ないことには何事も始まらない。ぽよぽよ跳ねる毛玉は、あなたの体調次第ですぐにモサモサになってしまうけれど、砂や埃にまみれることがないのは救いだ。でなければ、今ごろきっと雑巾みたいになっている。「ま、まあ……いつも気持ちいいけど……」あなたのブラッシング自体に不満はないので、誤解のないようもしょりと呟いた。毛玉としっぽの異形でなかったら、ちょっぴりアヤシイ会話に聞こえたやもしれぬ。されど毛玉は毛玉。言動はあなたの家族、または伴侶、または子供のように、親しみの込められたものであれ、あなたの足にぶつかって転がるさまは完全にボールそのもの。ころりんと一回転した毛はまたすぐに起き上がるので、大したダメージではないと知れようか。そうしてすぐ、ぽよぽよとあなたの隣までやってくる。目頭を押さえながら歩いているあなたと、前方を交互に確認しながら跳ねてゆく。生い茂る緑を踏む音は、一人分しか響かない。それでも気にせず、あなたの言葉にふふっと灰色の毛を揺らした。太陽の熱でほかほかになりはしないけど、陽光に照らされた毛並みは、きらきらとかがやいていただろう。)まったく、素直じゃないんだから。食べてみたら絶対「忘れなくて良かった〜」て思うわよ! 私に感謝したくなるわよ!(こちらは寝起きだろうと容赦のない明朗さで、大仰に呆れて見せる。しっぽがぺちんぺちんと、あなたのふくらはぎを軽く叩いた。宿主の身体が目覚めていくにつれ、心地持ち毛玉の動きも機敏になろうか。昨日も見た景色、歩いた道を、跳ねる足取りは危なげなく。「あっ 鳥だわ!」なんて、他愛もない声を上げるのもいつも通りの光景だ。亀裂の入った地面は避けつつ、滑りやすそうな場所も「気をつけて」とあなたに呼びかけながら進む。やがてカツンと蹴り飛ばされた瓦礫を見送って、そばのビルを一度見上げたならば、)ああっ、ここビジネスホテルじゃないっ! 見逃してたわ……でも崩れそうなら仕方がないわね……。(首が動かないあなたの代わりに掠れた看板の文字をなぞって、しおしおとした音を落とす。昨日ここを通った時は今ほど明るくなかったから、わからなかった。まあどちみち崩落の危険があるのなら、泊まることは出来なかったろう。今後は絶対見逃さないぞとばかりにふんふんと鼻息らしきものを荒くしつつ、問いかけには迷いなく返答しよう。)そうよ! あの角を左ね!(ぽよんと大きく跳ねて、あなたより少し先を行き、示された角を左折する。すると、錆び付いてはいるものの、かろうじて店名が読み取れる看板が見えるだろうか。あなたに止められなければ、ためらいなくその店にぽよぽよ入って行く心算だが──)びゃーーっ!? ネズミ!!!(入って早々目の前をよぎった影に飛び上がって、ごろごろとあなたの足元まで転がって戻って来ることになろう。)
2021/12/18 01:16 [130]
センセイ
2021/12/19 02:57 [140]
(否とも応ともいわない代わりに、げんなりとした色合いが増した表情はそれと分かりやすかったかもしれない。抱きかかえる事自体は日頃から厭うものではなく、寧ろ枕やクッションにしたがる素振りさえ見せる事から伝わっている筈だが、やっぱり階段は極力ご遠慮願いたかった。とはいえ、その時になるようになれ、だ。 跳ねればどこかへ転がっていってしまいそうな姿をして、けれど自律的についてきてくれる気配を低いところに感じながら、時折、下腿をぺしりとはたく柔さには曲がった背筋が少しだけ伸びた。)そういうものかね……まあ。その時はちゃんと忘れなくて良かった、って感謝するさ。それも忘れているようだったら教えてくれよ。(そんな彼女任せを、今日とて変わりなく紡ぎ出しながら。「鳥は元気だなァ」「もしコケたら今日はここまでにしようか…」諸々、彼女が示すものへ視線や興味の向け方はおざなりな代わり、ぽつぽつ思いついた言葉は落としていった。鞄の手すりを握り直し、時々首筋を摩って、欠伸を逃がしながら。落とし物が増えてきた建物の名称を教わって、ちらと閉まったガラス扉の出入口を見た。)嗚呼、此処がそうだったっけ。ネオンがつかなきゃ、どの建物も似たり寄ったりだからなァ……それならベッドはおあずけだね。(ベッドを逃す惜しさより、階段を上らなくて済んだ安堵で声色は心持ち、ほんの僅かではあったが明るめに零れる。名残惜しさも彼女に任せて、踏みしめる足は向かう交差点を従って曲がった。ひとりであればきっと退屈な道のりも、隣に明るい声を聴いていればそう時間が経ったようにも感じずに済んだ距離。──看板を見つけた時、彼女とは真逆で少し足取りが遅くなった。褪せた看板は、自分の埃を被ってかたちもうろ覚えな思い出にも似ている。陰った髪の狭間から細めた視線で一望し、それから跳ねていった彼女の尾っぽを追いかけようと──した矢先、随分と大きな声色には珍しく、びくと肩が跳ねた。「いたた、」遅れて痛覚に少し眉を下げはしたけれど。)ネズミ……て事は、意外と中には食料が残っているのかな。……モサモサ、噛まれてはいないかい。(逆戻りしてきたタイミングで、膝を折ってその場にしゃがんだ。鞄をつかむ手とは逆の手が、そのかたちが無事かを確認するように、さわさわと表面を撫でてみた。それから、ちらと戸を一瞥する。元々小動物や虫の類は平気な性質だ。彼女次第でそのまま腕に抱えるように立ち上がれば、撓んだ戸を足先で押しやるようにして中へ侵入を試みるだろう。)俺たちの食料を残してくれているといいけどね。……いざとなったらネズミも食べられるかな?(ちょっと微妙なところだ。お味や衛生面などこんな世の中に期待すべきではないだろうが、野生の逞しいネズミに勝てるかはちょっと、自信がない。入ってすぐの飲食スペースは、朽ちてはいるが当時のかたちをそこそこ残しているように見えた。先ほどのネズミも逃げたのか、一見静かには見えたけれど。)
2021/12/19 02:57 [140]
ビーチェ
2021/12/20 19:35 [161]
(あなたがどれだけ毛玉任せでも、毛玉自身がそれを厭う様子はない。もし、自分が猫だったなら。自分が死んだあとのことを心配して、もっと厳しいことを言うのかもしれないと思った。でも、自分は生き物じゃない。あなたが作ったものだ。だからむしろ、任せてもらえると嬉しい。「私も羽が欲しいな〜?」「弱気すぎるでしょ!コケたら受け止めてあげるから!」応える声音がおざなりであっても、毛玉のほうはいつでも全力投球。ビル街にわんわん声を響かせながら、あなたが足を滑らせても大丈夫なように張り切ってそばを跳ねていた。──かつて、どれがどんな建物だったのか。それはたしかに、じっと目を凝らしてみないと判別がつかない。さびれてしまった様相に、おもわずぽつりと小さくつぶやく。)昔はあんなに、夜が眩しかったのにね。……あーあ〜もうこの際ラブホテルでもいい! 両手足を伸ばして眠りたい!(おあずけとの言葉にはごろごろと駄々をこねるよう転がったものの「まあしっぽしかないのだけど」三回転するころには平静に戻って、すっくりと何事もなかったかのように体勢を整えた。ホテルはまた、腹ごしらえのあとにでも探すとしよう。時間を気にしなくなって久しいこの世界において、徒歩何分だとかいう概念は意味がない。毛玉のほうは疲れ知らずで、あなたが足を止めない限りは跳ね続け、喋り続けるだろう。この先も。──そうやって辿り着いた店先。まさかしょっぱなから天敵に遭遇するとは思わなんだ。毛玉はあの小動物が苦手である。かじられてしっぽがなくなってしまいそうに感じる。あなたの足元に転がったあとは、しっぽを身体にぴったり沿わせてぶるぶると震えていただろう。毛並みをさわさわ撫でられて、ようやく少し震えが落ち着く。「かまれでない」かろうじて押し出した返答は、やや涙声。そのまま抱っこをねだるようにぐりぐり毛をあなたの手に押し付けたら、腕に抱えてもらえたろうか。そうしたら、徐々に声色もいつものハリを取り戻してゆくだろう。しっぽはまだ丸まっている。)ネズミは憎たらしいけれど……食べ物があるに違いないわね!! 缶詰とか、ドライソーセージとか……調味料でも充分よ。ソースとか、濃い味がするものもたまにはいいじゃない?(あなたと一緒に、飲食スペースを見渡す。実際に自分がここで飲み食いしたわけでもないのに、なんだかなつかしい気持ちになった。「ネズミだけはぜっっったいにダメ」あなたの問いには一も二もなくぶるぶると身体を振って、力一杯の拒否を表す。ネズミなんて大した肉量もないくせに、病気だけはいっぱい持ってそうだし。それならまだ、虫を食べるほうがマシな気もする。想像はなるべくしたくないが。)……ね、センセ。もし食べ物があったら、そこの椅子に座って食べましょ。(このまま厨房に向かうならば、その途中でしっぽの力をゆるめて、あなたを見上げそっと提案しよう。尾っぽの先で指し示したのは、窓際の二人席。かつてはきっと眺めも良く、待ち合わせに使えばすぐに相手の姿が確認出来る、そういううってつけの場所だったろう。多くの人の思い出が、あそこに詰まっていそう──なんて考えてしまうのも、自分だけかしら。だとしても、あなたと向かい合って、あなたの顔をみて食事ができたら、今日はとても楽しい一日になると思うのだ。)〆
2021/12/20 19:35 [161]