(遠く遠く、まるで夢の中の出来事のように朧げな意識の向こう。金属とゴムでできた金切り声みたいな音のあと、ドン、と重くて柔らかい音を聴いた気がして、イスはふっと“目を開けた”。そして、その空間の明るさに、瞬間頭の中が真っ白に焼かれたような感覚に陥って、思わず小さい叫び声を上げそうになった。それからしばらく待って、また薄らと目を開けてみる。やはり真っ白だ。おまけにひどく眩しい。意識を巡らせてみると、それに合わせて視界がくるりと巡る。見渡すところどこも白く、平べったく、とにかく白いだけの空間とわかる。自分が最初に見たのはどうやら天で、そこにポッカリと浮かんでいる光から、何やらいい匂いのする花びらが後から後から降って来ているのだ。)…ははあ、これはジジの夢だな。(と、合点がいったとばかりに呟いた。身を起こしてみれば、自分は色とりどりの何かの上に寝そべっていたらしく、その色とりどりは一つひとつめいめいにラッピングされた特大の贈り物だとわかった。サイズは様々、包み方もリボンや花飾りのついたものや、慌ててそこらにあった新聞紙に包んだようなものや、慣れない手によってくしゃくしゃにセロテープでとめられただけのものもある。自分の体の下にある、まるで降誕祭の朝を待つかのような贈り物の山を見て、“これは夢なのだ”と思わない方が不自然であった。そして椅子であるところの自分は夢など見ない。よって、これは彼女の夢なのだと。そういう風に理論づけ、溢れんばかりの花の香りにひくひくと鼻が動かして。そこでようやく椅子は「ん?」と思って、自分の体を見下ろし、そしてビクッと静止した。慌てて辺りを見渡して、そこに転がっていた彼女が母親から贈られた手鏡を見て──)……なんということだ!(そこに映っているいきものの姿を見て、今度こそ、悲痛な声をあげた。それは立派な尻尾を持つ、一匹のハイイロリスだったからだ。慌てて鏡に駆け寄って、「何?」とか「はて?」とか小さな疑問の声を上げながら、自分の頬に触れたり口の中に醜く並ぶ門歯に度肝を抜かれたりしていたが。)…大変だ、これは悪夢だ。急いでジジを見つけなくては。きっとこの山のどこかに埋まっているにちがいない。(と、自分の身に起きた災難を嘆き、プレゼントの山の上で背伸びして、まだ乾いていないインク染みみたいな目をきょろきょろと働かせる。なんの理由があるかも知れないが、彼女もこの山のどこかに埋まっているに違いないと贈り物の中に潜り込んだ。自らの意思に反して、毛箒のような尾っぽがピンピンと跳ねる。)
2021/12/22 19:29 [10]
(その年の夏にはオリンピックがあって、それからジジのまわりではちょっぴりスケートボードが流行った。ひとの多いスケートパークに行く前に練習しようって、あの日もすこし離れた小さな公園に友だちと集まるはずだったのだ。13歳の子どもは寝坊して気が急いていたから、あの事故は運転手のほうが気の毒だった。──そう、そう。“友だち”。その響きに、ゆっくりと夢に浮かび上がるのはなつかしい椅子のかたち。庭にあった紫色のプラスチックのベビーチェアは、たしかガレージセールで売れてしまった。リビングの窓際のL字のソファに寝転びながら、ハーティーが窓から庭の小鳥やりすを探してしっぽを揺らすのを見上げるのが好きだった。一度きりしか座ったことがなくたって、あのマイアミの白砂の上、ストライプ柄の布が張られたビーチチェアや、サマーキャンプの最後の夜にココアを飲みながら星を見たときの折りたたみの椅子はおなじようになつかしく、そして特別だ。思い出の中から見つけた椅子も、そうでないものも、油脂と砂糖と小麦粉を練ってかたちにしてゆく。長い夜の中で。ひとりぼっちのはずだったのに、かたわらには友だちがいて、だから16歳のクリスマスだってさみしくない。そういう夢を見ていた、はず、なのだけれど。)……は、ぇ、(昏睡というより熟睡から目覚めたように、13歳の娘が病室のベッドで目を覚ます。森みたいな匂いがした。ちょっとしめっていて、ちょっとさわやかで、甘い。花だ。そう明るくはない中、ぼんやりとした間接照明が天井の白さや、自分を囲んでいた花々のいろどりを教えてくれる。あちこちに原色の風船があり、それこそクリスマスにだって見たことのないプレゼントの山がベッドの上にまで。一匹の小りすちゃんのことも、誰が床に横たわっているかも知らないままで身を起こす──と、動体センサーらしいライトがぱっと壁を照らした。誕生日のときみたいな、三角旗の飾りが弧を描いて貼られていて、そのひとつひとつに文字が書かれている。“Just stay alive,Georgia”、そう目が追うころには16歳のクリスマスの夢なんかは、さあっと溶けてしまった。かわりに、背中を冷えたむかでが這いのぼるみたいな、いやな気分が湧いてきて、ああ、ここはよくない場所だと、予知するみたいに思う。世界でひとりぼっちになってしまった、そんな気分。)……、…す、(くちびるは夢の友だちを呼ぼうとしたのだけど、あの大人の声のひとがどんな顔をしていたかもわからなくって、できなかった。だから13歳のジジがか細く呼ぶのは、)ママ……?(長い夜のはじまりの中で、こわがるようにベッドの上に目を落とす。だからそれは、もしかすると、たまたまプレゼントの山から抜け出していたハイイロリスに向かってお母さんと呼びかけたことにも、なるのかも。)
2021/12/24 01:12 [30]
(プレゼントの山に首を突っ込んだは良いけれど、肝心の少女はどこにもいなかった。この目はちょこまかとあちこちに動くので、だんだん景色がぐるぐると回ってくる。おまけにどこもかしこも不思議な匂いに満ちていて、鋭すぎる哺乳類の嗅覚に酔ってしまってその場で石のように動けなくなっていた。やたらに早いときときという音を聞きながら、一生懸命に記憶を辿る。)…よりによってなぜリスなんだろう。君だって知ってるだろ、木を齧るだけしか脳がないんだ。同じ通りに住んでたあの偏屈なおじさんだってしょっちゅう言っていたじゃないか、昔あの忌々しいハイイロリスに噛まれて、破傷風のワクチンに45ドルも払ったって。しかしこの匂い、何だっけな。ああ、そうだ。ジジは外を走る栗鼠を見ているハーティーを見るのが好きだったんだっけね。この匂い、香ばしいって言うんだろうか。ベビーチェアの周りに、この匂いがいつもあった気がするんだけど…、(あちこちに飛ぶ思考はぷつぷつとした呟きになり、贈り物の山から突き出た尻と尾ばかりが神経質に動き。ひとりごとは、その山がぐらりと揺れたところでパッタリと止んで。慌てて頭を抜き出してまたあの光の中に戻ったら、そこに大きな大きなともだちの姿を見た。)…ああ、わかった。胚芽入りクッキーだ。(それは、ともだちが言葉を発したのとほぼ同時。自分ひとりで答えを導き出した後、自分が知る彼女よりも幾分幼い姿をポケッと見つめていたが。)まま!?(キィ、とちっちゃい金切り声がリスの口から発されて。そのままたっと、少女の見下ろすところへと駆け出る。)君はハイイロリスから生まれたわけ?見てよ!この恐ろしいすがた…ずんぐりむっくりで…毛むくじゃらのボディ!ああ…何だか心なしか知能もリス並みになったみたいだ…。(シーツの上で悲劇的な演説を繰り広げる齧歯類。悪い予感と記憶に嫌な冷たさを感じている彼女をよそに、目の前に突き出した小さな手が、一瞬だけゆらっと空気に溶け出して、赤と青のクレヨンで引いた線みたいになってまた戻る。ピクっと片耳を震わせて、リスの目がそっと足元を見る。ちょうど同じ色をした線が、踏みつけていた画用紙の上にあって。そこには小さな子供が描いたような絵があった。4人分の笑顔の棒人間。パパ、ぼく、妹、それからママ。“Remember me and my family in your prayers”。誰かが勝手に彼女に託した、記憶と思い出。それをよそに、小さな山高ボタンみたいな黒い瞳が、今度は静かに少女を見上げる。)……思い出して、僕は君の友だちだよ。尤もこんな不格好じゃあなかったけどさ。こんなちっちゃい手足では、君のお尻を支えられやしない。(形が違う。声もなんだか、同じようで違うみたい。ぱさ、ぱさ、また花びらが、ベッドの上に降ってくる。花弁が落ちるのは、役目を終えた証拠。)
2021/12/25 02:42 [41]
(その友だちのつぶやきを、16歳のジジの耳が拾っていたならきっと思い出話をなつかしみ、そしておもしろがって語るはずだった。あるいは自分よりも彼のほうがようく知っている、それぞれの椅子にある少女の物語を。けれどもここにいる13歳は、その友だちとの時間のことをすっかり夢のように心のどこかに置いていて、しかし今目覚めた病室だって、いつかどこかで見た夢みたい。予感よりもはっきりとしたこわさがちくちく肌を刺して、でも、やっぱり悪夢ばっかりっていうんじゃない。だって生きてと言われたのだ。目の前にある山積みの贈りものが、たくさんのひとが自分に置いていってくれたのだとわかってしまう。13歳の胸につめこんでしまえば、簡単にはち切れてしまうような、たくさんの想い。それにひとりさらされて、ママを呼びながらぼうっとしていたのだけれど。びっくりしたような声が思いのほか下の方から響いてきたから、湿ったまつ毛をぱちぱちっと動かした。目をまるくする。シーツの上の小さなりすの、その目のつぶらさにはかなわなくっても。)……、り、りすさん? ……、ハーティーからにげてきたの?(穏やかに混濁する記憶は、そんな場違いな問いかけをつくった。それは見慣れた、庭に遊びにきた生きものの姿をしていて、でももっと親しみがある。懐かしさが。一瞬だけそのちいちゃな手の輪郭が揺らいだように見えたが、そんなことはかまわずに両手を差し出し、水をすくうようにその体を持ち上げよう。森のプリンセスみたいに優しい仕草になるように。13歳の手のひらは、16歳のよりすこしだけやわらかいかもしれない。傷なんかもどこにもなくて。それからおそるおそると手を持ち上げて、おたがいの目の高さを近づけて、ああ、とため息混じりの声が漏れた。)ああ、…わかるよ。……うふ。かわいいね。どうしちゃったの、イス? しっぽがとってもふわふわ。あなた……、こんなだっけ?(両手の台座をたもったままで、親指でその毛むくじゃらの友だちの腹を撫でて探る。なんだかひさしぶりにあたたかいものに触った気がして目を細めて、それからしおれた花びらが導くみたいに落ちた先には画用紙が一枚。)……、みんな、…なんだか、見たことあるなあ。案内してあげようか、イス。ここね、…わたし、知ってるみたい。ふしぎね? ここからはじまったの…。
2021/12/27 02:39 [64]
(夢の中のせいだろうか、色んなことがまるでとんちんかんで、自分のかたちすらあやふやで容易く揺らいでしまう。それがこんなにも意心地の悪いものだなんて、椅子は知らなかった。落ち着け、と心の中で呟く。落ち着いて、自分の形や声を思い出すんだ。けれど視界にちらつく髭や尾っぽのせいでどうにも気が散ってしまって、リスの姿のまま小さな手の上に収まることになる。)ああっ、ジジ、そっと、そっとやってくれよ。うわあ、足元が揺れるって凄くとんでもないことなんだなあ。(そっと掬い上げてくれた友だちの手に不安そうな声をあげる。自分の足よりも細いはずの指が、ものすごく長大なものに感じられて。それが自分の腹部を擽れば、「…潰れて中身が出てしまう」と情けない声を上げつつも。それでも彼女が自分の名前を呼んでくれれば、何か確固たるものが戻ってくるような心地がした。)…そうだ。僕はイスだ。…さあ、どうしちゃったのかなんて僕が聞きたいくらい。君の頭の中のことだろう。夢の中とは概して奇妙なものだけど、よりによってリスとはね…。…しかし、君のことをこうやって真正面から見るのって、なんだか不思議な感じだ。いつもは後ろ向きだからね。(物を解ったような言葉を吐く声は、いつもの大人らしさを取り戻していて。彼女の大きな大きな目や幾分も幼い顔立ちをまじまじと見上げながら、いやに感心したような声を出した。椅子であるところの自分を思い出しているのだけれども、心もとないほどにふわふわの腹毛も尻尾もまだそのまま。それからひくひく、と小さな鼻が動き。)……いいのかい?(いいのか、という問いは、彼女にとっては悪夢に近いであろうこの世界を彷徨くことへの。彼女の口ぶりとは裏腹に初めて見る光景を一瞥する。ぱさ、ぱさ、と落ちていく花びらはなんだか雪のようで、本当に床に降り積もっているのかもしれないし、そうでないかもしれない。色とりどりの風船もぷかぷか浮いているけれど、きっとそれは、彼女にとって必ずしも楽しさを表すものではない筈だ。)…僕は初めてくるところだから、その申し出は嬉しいところだけれど…。…うん、でも僕だって、君の全てが始まったところを見てみたい気持ちもある。…ジジ、ちょっと僕を床に下ろしてもらえるかい?車椅子になれるか、やってみよう。(ひとまず、長い間眠り姫だった彼女の足を気遣ってお願いをしてみる。もちろん、今は彼女の掌に収まってしまう存在なのだから、彼女が「いや」と言えばそれまでのことだ。)
2021/12/28 03:28 [75]
(姿かたちも、ぬくもりさえもあの夢の椅子とちがってしまえば、その内側におさまっているものだって、夢の中の友だちとはことなって見える。大人だって、いつもと勝手がちがうことに戸惑ったりもするのだろうけれど。たぶん、16歳のジジはその友だちの冷静さを、何が起こったってだいたい盤石なものとして頼っていたから、ことさら目の前の小りすちゃんがかわいいものに見えた。きゅっと胸がくすぐったくなる。キャンディを含むみたいにほっぺたがちょっと上がる笑いかたをしながら、友だちのやわらかな毛に指先をうずめるのをそうっとやめて、「やさしくしたでしょ?」と言うのだけれど、その唇はふわふわと揺れるしっぽをまるのみしたい衝動をうずうずと我慢していた。)イス。そうねえ、イスだ。……、ゆめ? ゆめ……、(もう涙の気配もどこかにいった目を瞬かせながらその言葉を咀嚼する。ちょいと見上げた天井は長く凍りついたようにわびしくはない。まだ人類のともしびが消えたばかりの、ただ清潔な平面がぼんやりと明かりに照らしだされている。)あなたが…、出てきてくれたんでしょう? 夢から。わたしねえ、あなたを…夢見てたんだよ。イスがいてね、わたし……、さみしくなかったの。ねえ、だからね、これからだって、大丈夫。(彼が言うとおりに、こうして正面から、その上目と目を合わせてしゃべることなんて当たり前ながらなかったので。どことなくすました口ぶりの友だちの様子に目を細めて、えいえいとそのちいさな体をやさしく両手でもみくちゃにした。今の自分には──この友だちと過ごす時間は、たしかにさっきまで見ていた夢のよう。でも、こうして目の前にある姿も、違う姿を取ろうとするそぶりも、矛盾なく心の中に入ってくる。目覚めたあとに、一体なにが世界と自分とに起こったのかだって、手紙や動画のメッセージを見なくたって、わかってしまっているのだ。)いいよ。…話したっけ? やや、これから話すのか。ううん、なんか、頭の中がへん〜な感じだねぇ……。(車椅子と聞けば、そんなに悩まず「おねがいね」と甘えて友だちをシーツの上に解放しよう。たくさんの贈りものを足場にしたら、きっと簡単に床に下りられるはずだ。こっちはよいしょとベッドの端に腰かけて、髪の寝ぐせを手櫛で直そうとする。しおれた花びらがはらっと髪から落ちて、ベッドのすぐそばまで積まれたプレゼントの包み紙の明るさにまぎれていった。パーティみたいににぎやかな色合いの中で、壁際の一角だけがぽっかりと空いている。そこだけすっかりきれいに片づけられて、浮かんだ風船だって遠慮して寄りつかないみたいだった。あるいは、そこにあるものを見えないように。13歳の心が認識できないように。──きっと友だちがその姿を取ったことのない、薄い黄緑のビニールレザーの二人がけのソファ。そしてその前の床に、寄り添って横たわる両親の体。それはこの世界では隠されてしまっていた。そのなにもない空間をじっと見つめた後には、ふいと友だちのほうに顔を向けて。彼が手のひらに収まるりすの姿から、病院になじむ車椅子の顔に変わっているなら、そこに移動させてもらうことにしよう。足取りはふらつきはしなかったけれど。)いいねえ、落ち着くねえ。……えと。そうそう、ほかにも、ずうっと寝てた患者さんがいるかもって、探したりしたの。だって病院でしょ? 見にいく?お兄ちゃんの手紙のこととか、聞きたい? なんでもいいよ。なんだかねえ、どこへも行けそうね。さむくないもの。
2021/12/30 02:00 [96]
イス
2021/12/31 21:03 [108]
(所在なく少女のてのひらに乗せられたまま、あたりをそっと見回してみる。視界がぐりんと動くことに、まだおっかなびっくりになりながら。はるか頭上から彼女の声が降ってくるのがなんとも奇妙に感じられて、落ち着きなく震える尾っぽ。それはやがて、どこか威張ってピンと跳ねるのだけれど。)…僕の夢を?それは光栄だね。夢の中の僕は、今の僕よりマシな姿をしていたことを祈るよ。リスだなんて絶対だめだよ。だってリスは、冬眠しなくちゃならないだろう?冬の間も君と一緒に居るためには、リスではだめだ。(皮肉屋は、またとりすまして持論を繰り広げる。もみくちゃにされたら、またきいきいと古い木椅子が軋むような上げて、シーツに降ろされた後は全くもう、だの、悪夢も甚だしい、だなんて偉ぶった独り言をぷつぷつと呟いて。たくさんの贈り物を滑り台にして床に降り立ったら、目を瞑って、車椅子、車椅子、と呪文のように唱える。悪夢の中だって、椅子と名のつくものに自分がなれないことはないだろう。人をダメにするソファは、どう頑張ってもなれなかったけど。あれを“椅子”と認めたくない自分が、どこかにいるのかも知れない。それからあともう一つ、なったことのない椅子のひとつ。彼女の記憶から抜け落ちた、決してなることのない椅子。リスの瞳に、部屋のすみの不自然な空間が一瞬だけ映って、それから。──カタン、という音と共に、そこに車椅子が生まれていた。どこの病院にも置いてあるような、アルミ製のスタイリッシュなやつ…ではなく、矢鱈とポップな絵柄のリスが、笑顔で両手を広げている姿が座面にプリントされた、子供用のやつ。)……まあ、いいか。(いつもの声が、不承不承と言わんばかりに呟く。彼女が座席に収まれば、)それで、何の話だったっけ。君の誕生日パーティの話?(と宣った。頭がぼんやりしているのは、椅子も同じだったのだ。けれど彼女の言葉にすぐに思い出したように「ああそうだったね」と返事をして。)他の患者か。…そうだね、確かに君と同じように眠ったきりの人間が、他にもいるかもしれないと考えるのが自然だ。行こう。ここの病院はずいぶん大きいのかい?君のお兄さんの手紙の話は、道々で話して聞かせてくれたまえよ。その腕時計のことも聞きたいな。それから…、…しかし、ずいぶんたくさん花びらが積もってるなあ。タイヤが絡まないといいけれど。(ころころ、と一人でに車輪が回る。彼女を乗せて。見えないソファーや、見えないパパとママのそばを通り過ぎて、贈り物がたくさん詰まった病室を出て。なぜだかそこらじゅうに降り積もった花弁は、彼女の記憶から何かを隠したいのか。それとも夢の中だからなのか。実際にはタイヤを取られることなんてなくて、するすると車椅子は進んでいく。どこまでも続く廊下は、彼女が寒くないと言うのだから、最終的にはこの夢はそれほど悪いものでもないなと思った。)〆
2021/12/31 21:03 [108]
(16歳はもちろん、13歳の娘の目から見たってちょっとかわいすぎるその車椅子。そこからおしゃべりする大人の声が家族みたいに聞き慣れているものだったので、自分でも知らぬうちに安心する。それから見た目とのちぐはぐさにふふっと笑ってから座ったのだけど、肘掛けに置いた両の手のひらにはまだあたたかい毛のちっちゃな生きものの感触が残っていた。)ああ、そう。この日を、誕生日にしたってよかったね。一生ぶんのプレゼントを見ちゃったもん。ねえ、イスの誕生日はさ……、王様の椅子になってよ。(変わり映えのない日々を過ごすうちに、なにかとイベントをつくりたがるようになった。病院のある、街の中央からは離れた家にはじめて帰った日は“帰宅記念日”。モールに残ったショップの服のうち、特に生き抜くに必要のない服を何着か持って帰る“ジジコレクション”。このホテルで大冬を過ごすと決めた日は“ホテル ジジ&イス フローズンレイクサイド”の開業日だ。神様がいないと知ってしまっても日曜日はお祈りの時間を取ったし、友だちと出会った日はとびきりのお祝いの日のひとつ。とっときの缶詰やかちこちに冷凍焼けして乾いたお肉なんかのごちそうも、結局のところジジひとりのおなかにおさまってしまうのだけれど。それでも主役が着飾ることを遠慮なくねだりながら、ゆっくりと車椅子が動き出して部屋を出るその前に、ひょいと手を伸ばしてしぼみかけの風船の糸をつかむ。手繰ったハート型の風船を膝の上で抱えながら、また最後にちらっと部屋のすみっこのスペースを見たが、見ただけだ。友だちを連れて、凍りついたままのパパとママに会いに行こうとしたこともあったかも。それだって13歳の記憶と心からは、今は抜け落ちている。)うん。おおきいよ。でもね、いなかったな。生きてるひとは……。家族そろって眠りたかったひとたちもいれば、わたしとおなじにプレゼントをもらってる患者さんもいたけどね…。(なめらかな病院の廊下の上にも、フラワーシャワーがあったようにたくさんの花びらが落ちていた。祝福された新郎新婦が歩いたあとみたいに。「結婚式みたいねえ」とへんにのどかな感想をつぶやきながら、まっすぐに続く廊下のその先は、明るいはずなのに見通すことはむずかしい。その廊下を進む間には、美術館の絵のようにときどき大きなガラス窓があって、そこから娘の語るものを見ることができたろう。自分にたくさんのプレゼントが待っているって知らないまま、ベッドの上で眠りながら冷たくなってゆくひと。ひとり残されるかもしれないことを哀れんだ家族の選択。おわりまで仕事をまっとうした職員たちが倒れこんでいるところ。)……、みんな…、くるしくなかったと、いいね。くたくたであったかい毛布にくるまったときみたいにさ、…そんなふうに終わったんだったら、いいよね。(ささやかな弔いのようにつぶやいて、張りの弱くなった風船のハートの形ををちょっとだけ手で挟んでゆがめる。そうして進むうちに、やがてはガラス窓は病院のものからかたちを変えて、教室の窓や中で猫がくつろぐ家の出窓なんかが出てくるのだろう。そうやって静かにアルバムをめくっての思い出話をするみたいにして、途中ではもちろんさっき告げた兄の話も。兄だけは、いつでも死んじゃってもいいよと書いていて、それを彼らしいなと思ったこと。やがてあれだけ先の見えなかった廊下も終わりがやってきて、それは夢のおわりと同じ。目覚めたホテルの一室は、山のようにかぶった寝具から出てしまえば途端に震えてしまいそうな凍えた夜。吐き出す息はいつもよりもっと熱くって、それは頭の中も、指先もそう。クリスマスにはしゃいだつけのように熱を出してしまっていたのだ。もうろうとした頭が見せた夢は、咀嚼するうちにどんどんほどけていってしまうけれど。)イス。(冷たい暗闇の中でそっとベッドサイドに手を伸ばして、自分だけがさわれる友だちを指が探す。)ゆめをね、…みたの……。おはなし、…していい?(眠たげな声で、おはようの前につぶやいて。あっという間に忘れてしまう自分の代わりに、夢のことだって友だちに覚えておいてほしがった、そんな一日のはじまり。)〆
2022/1/1 00:12 [110]