A:(Forget me not.)
bice
ビーチェ
2021/12/22 21:06 [11]
(──ここは、どこかの屋上だ。どこだったっけ。まあいい、彼に聞いてみればわかるだろう。傾いた太陽が、遠くに立ち並ぶビル群の隙間に沈んでいく、たそかれ時。下のほうからは、帰宅途中の子供たちの笑い声や、車のクラクションの音が聞こえてくる。それを覗き込みたがるように、目の前のフェンスに手をかけた。白く、細い指先だ。爪はきれいに切り揃えられている。その十指でもってがっしりとフェンスの網目を掴み、さらに片足もひっかけた。黒いローファーに同色のハイソックス。膝丈のセーラー服は紺色。がしゃんがしゃんがしゃんと、3掴みほどよじ登ったが、己の背丈よりずっと高いフェンスのてっぺんにはまだ届かない。ひんやりとした風が吹いて、アッシュグレーの髪がそよいだ。腰丈まであるストレート。ツヤと潤いのあるそれだけが己の自慢。さっきからどうしてか、お尻のあたりがスカスカする気がしているのだけれど、はて、なぜだろう。何かが足りないような気がする。──まあいい。もう一回、がしゃんとフェンスを掴んだら、屋上の扉が開く音がするだろうか。体勢はそのままに、顔だけで振り返る。そのかんばせは、子供のようにも、大人のようにも、少女のようにも見えるだろう。平凡な造りだ。彼の目には覚えのある顔だったかもしれないし、はじめて見た顔だったかもしれない。それでも、”これ”は口の端をゆるめて、やってきたあなた──彼に、声をかける。)あーあ、見つかっちゃった。……センセ、お仕事終わったの?(右手だけを離して、頬にひっついた髪を払うようにしながら、尋ねる語調は上機嫌に弾んでいよう。)
2021/12/22 21:06 [11]
sensei
センセイ
2021/12/24 19:44 [39]
(『──先生』。呼ばれた音はたしかに自分を差す符号だったが、その時はまるで、雑音が入ったように靄が掛かっていた。よれた衣服に白衣を羽織り、名札は胸ポケットにしまい込んだ出で立ち。朝方にワックスでぴっちり後方に撫でつけた髪は、重たさに負けてちらほらアホ毛を飛ばして眼元にかかっていたし、剃った髭もうっすら顎周りにざらつき始めていた。交代した休憩時間、そそくさ階段を上っていた背にもう一度呼び止める声が掛かれば、振り返った先には看護師の誰某の姿。諸連絡を受ける最中、手にした煙草と缶コーヒー、主に前者にこれみよがしないやな視線を向けられたから、どちらも隠すように白衣のポッケに押し込んだ。喫煙所を備えている事を第一条件に激務も承知で就職先を選んだのに、憩いの場は勤め始めて数年足らずで世論に流され閉鎖されてしまった。故にこっそり人気のない屋上を、得意じゃない階段をのぼってまで代用品として使用しているのは恐らく規律違反だが、肩身の狭い喫煙者には仕方のないことなのだ。ようやくの一人きりの足取りが、あともう少しを上り切る。息をつき、扉から差し込む夕暮れに目を細めながら無人の場に踏み込んだ、筈だったのだが。)……──、えぇー……(色々な情報が脳裏に渋滞して、間の抜けた声が出てしまった。放っておいたら飛び降りかねない若い姿を、駆け出して止めにいくだけの体力と気力は、仕事疲れの三十路には備わっていなかったからだ。代わりに、とんとんと人影がぶら下がったフェンスに近寄る足はいつも通りの歩幅で、)見ないふりして扉閉めようか、一瞬迷っちゃったよ。……いや、まだ休憩。そんで今日はこのまま夜勤だ。また家には帰れないね。(声色もまた、状況にお構いなしな変わりない平坦な音のまま。その人影の傍まで歩み寄ろうとする足取りは、彼女が動かないならばフェンスの脇まで進んだし、それ以上をのぼろうとする気配があれば半ばでぴたりと足を止める事になる。)とりあえず、降りてこない? パンツ見えてたよ。……えーと、(ポケットを探り、押し込んだ煙草の箱から一本を抜き取りながら。なんてことはないよう話しかけながら、改めて見るその顔ばせに──見慣れた筈の顔に、呼びかける名前を迷った。その符号が正しくないような気がしたからだ。)君、名前なんだっけ?(だから、そんな失礼な事をしれっと口に出して。)
2021/12/24 19:44 [39]
bice
ビーチェ
2021/12/25 04:24 [43]
(この建物が何階建てなのかはわからないが、高所からの景色は、胸が満たされる心地がした。まるで、もう何年もこの光景を見ていなかったような。タイムマシンを掘り返した時のような、郷愁にも似た感慨。明日も明後日もきっと同じ景色を見るだろうに、なぜだか、このままずっと夜が来なければいいのにと思った。けれど同時に、この夕焼けをひとりで見るのはいやだな、とも思った。──だから、開かれたドアの向こうから彼が顔を出したなら、ほっとした。”見つけてくれて”よかった。言葉に反して、どうしてそう思ったのかはわからないけれど、自分と彼は、こうして同じ場所にいるのが自然なことなのだ。「──なんでよ!」とは、近寄ってくる彼の口から発された”迷い”についてのツッコミ。まあ、あのまま扉が閉まっていたら、こっちから追いかけていくだけだけれども。明らかに仕事で疲れています、といった彼の様相を見下ろす。普段は仰ぎ見るばかりのそれが、ひどく新鮮に感じられた。)えー!? せっかく迎えに来たのに! 働きすぎじゃない? ちゃんとベッドで寝てる?(ゆらゆらがしゃがしゃと身体を軽く揺らして。真っ先に不平を漏らした唇は、徐々に心配げな声色を紡いでゆく。完全に彼のほうへ向いた上半身からは、もうそこより上に登る意思は見られなかったろう。でも、自分がまだフェンスに掴まったままであったと思い至るのは、彼に指摘されてからになる。「あっ」パンツという単語に慌てて、片手でスカートを押さえ「す、スパッツ履いてるもん!」どもりつつフェンスから飛び降りた。「……履いてたわよね?」二本の足でしっかり立ってから、最後は不安いっぱいに彼を見上げて問いかけたものの。煙草をくわえるその仕草に、むっと眉が寄ったのはほとんど条件反射。煙草は身体に悪いって言ってるのに、と相手の身体へ手を伸ばしかけて、はたと動きが止まる。──自分の名前。名前。一瞬、ぽっかりと思考に空白が出来た。己の白い手を見下ろして、しばしの無言。不意に吹いた冷たい風が、慣れ親しんだ煙草の匂いを運んでくる。そこではっと顔を上げて、)もちろん、センセのベアトリーチェ──”ビーチェ”よ!(えへんっ。腰に手を当てて、仁王立ちでふんぞり返った。間があったわりには、えらく自信満々である。)センセ、私の名前まで忘れちゃったの?(口を尖がらせ、ことりと首をかしげての問う。”まで”と言いながら見つめる先は、彼の双眸よりやや下。白衣の胸ポケットの部分であったろう。)
2021/12/25 04:24 [43]
sensei
センセイ
2021/12/27 02:50 [65]
(相反する気質とはいえ同じもの同士──或いは同じ夢同士だからか、今この瞬間に男の脳裏に浮かんでいる思いの中にも、このまま時が過ぎなければいい、の思考は確かにあった。“仕事に戻りたくない”、“ずっと休憩していたい”と言い換えてしまうと、身も蓋もなくなってはしまうけれど。無事に足取り進めば、フェンス側に凭れるような姿勢。それ以上のぼる意思は見えなかったとしても、彼女の主張に合わせて音を立てているフェンスはちょっと、いやかなり危なげだ。「空いてる診療ベッドで仮眠したりはするよ」と眠たげな声は答える。そうしてちらと、上目遣いでも重たげな眦が今時風な長い髪色と、その顔だちをしげしげと眺めていたから、デリカシーを欠いた言葉をきっかけに素早く動いた行動もまた追い掛けはしても、聞き直す声にはまた「ええ……」となんとも言えない声を出して、)なんかヘタに答えたらお縄にかかりそうだな……、見えてないって。まあ。テキトウ言っただけだから、そんな目しないでよ。……(距離が離れていたし、夕焼けで逆光気味だったし。浮かぶ言い訳ならなんだって言えたし、実際ふわりと風に揺れていた背面に気を取られたとすれば、そこに元気な尾でも見えそうな気がしたせいだ──なんて、それこそ一介の女子学生に対しては寝言のようなこと、流石に口には出さずじまい。その代わりに擦ったマッチで灯した煙草の煙をぷかぷか浮かせつつ、愛用している煙草のボックスを手に転がしていた。まるで話題を変えるようなタイミングになってしまったが、名乗ってくれる名前を脳裏に反芻する。その“顔”や“仕草”とはちょっとしっくりこなくて、けれど”声色”には腑に落ちるような不思議な感覚がした。)そう、……そっか。そうだね。……まあ、そのセンセがどこぞの誰か、俺は存じないけど。(とぼけたような声で答えてだらけた肩をすくめてみせる。次いで、まるで含みのある声色を向けられても、それもまたわざと不正解でも手繰るように、彼女の視線の間──胸元の紐先を隠す形に片手遊びをしていた赤と黒のコントラストが印象的なボックスを持ち上げてみせ、「吸ってみたい?」と繋げるのはあくまで前置きとして。)迎えに来たんだっけ。……でも、なら何でそこ登ってたの?(煙草の火花の小さな囀り。どこか遠くの声や物音。それらに払う注意はおざなりに、飴色に薄く染められた彼女の頭頂部を見つめながら、そこ、と煙草の先でフェンス側を指さした。)
2021/12/27 02:50 [65]
bice
ビーチェ
2021/12/28 01:59 [74]
(己の危なげな行動を差し置いて「診療ベッドってあの硬いやつ!?」そんなもの寝たとは言わない、と眠たげな声にキイキイ噛みついたのは、今の彼の様相がお世辞にも健康そうには見えなかったから。彼を見下ろす位置から、同じ床の上に降り立って向き直ってみると、いつもより近い気もしたし、いつもより遠い気もした。未だに違和感のあるお尻の辺りをもじもじと押さえつつ、彼の返答には少々胡乱な目を向けたあと、)ふうん……まあ、センセになら何を見られてもいいんだけどね。(急にけろりと立ち直って、へにゃりと相好を崩した。よくよく考えてみたら、たとえ下着を見られていたとしてもそう問題はない気がする。ただ、”パンツを見られて恥ずかしがる”という行動がしてみたかっただけだ、たぶん。年相応に膨らんだ胸元で、彼の白衣と同じ色をしたスカーフが揺れる。)センセはセンセしかいないでしょ〜〜〜!?(その言い草には思わずショックを受けたように肩をいからせて、どす、と彼の鳩尾に拳を叩き込んだ。力一杯の抗議であったが、実際のダメージとしては、おそらく”いつもぶつかってくる物体”と同じ程度だったろう。そのまま唇をへの字に曲げて腕を組み、拗ねた様子を見せる。重ねてとぼけた彼の問いかけにも「吸わない」ふるふると頭を横に振って、つーんとそっぽを向いたけれども。)………、(視界の端に映った煙草の先を、追いかけるようにしてフェンスの上のほうを見上げる。彼の白も、自分の白も、目の前に広がる夕焼け色にすっかり染められていたろう。その橙のなかを、一羽の鳥が飛び去っていく。)……センセが来るのが遅かったから?(”迎えに来た”という言葉と、やや矛盾した答えがほろりと落ちた。特になにかこれといった目的があったわけではない。ひとりだった。だから、やることがなくて、飛んでみようかと思った。ぼんやり丸みを帯びたひとみで、彼の顔を見上げる。ふっと口元がやわらかく笑みにゆるんだ。)もういいの、ふたりになったし。……ねえ。煙草もいいけど、私たちにはそれよりもっと必要なものがあると思わない?(不意に、ないしょ話をするみたいな囁きをこぼしたかと思えば、彼のボックスを持つほうの手首をわしりと掴まんとする。そうして、ぐいっとフェンスとは逆側に引っ張ろう。──すると、屋上の中央に、いつのまにか大きなベッドがひとつ置いてあることに気づくだろうか。真っ白なシーツは、洗いたてのようにシミひとつなく。枕も見るからにふかふかだ。「さあ、思う存分休憩なさい!」得意げな声の主は、彼の腕をぐいぐい引いてベッドに座らせようとするけれども。)
2021/12/28 01:59 [74]
sensei
センセイ
2021/12/29 05:41 [89]
(瞼すら重たげに見える双眸は然して変わりない有り様ではあるとはいえ。好きな時間に寝て起き、煙草を節約しながら不必要な──かつては必要だったことを忘れていく、気楽な終末ライフの方がよほど、この男にとっては健康に暮らせていたのかもしれない。なかなか厳しい判定の声色が疲れ気味な耳にハウリングした気がして、眉を顰めたり緩めたりしながら頭を引っ掻いた。そうして怒ったかと思えば、柔らかそうな頬を緩めてみせて。それこそだれかに見られたら大変なことになりそうな気がして、「そうやってからかう事を言わない」と一言ばかり忠告じみた言葉を挟みはしてみたが、かと思えば鈴の声が奏でる大声に、何かを言う前にお見舞いされた一撃に「う゛っ」と低く唸る音が出た。的確な急所狙いが大打撃でなくてよかった。さすさす、未だ感触が残っている気がする腹部を撫でていれば、今度は分かりやすくお臍を曲げたような様相。百面相とはこのことだろうか。そうして多彩な表情と声色を見せるひとを、“かつての自分”は知っていた。嗚呼、だから彼女は”   ”に似ているんだな、と。その姿は、まるで出会ったばかりの頃のように年若いけれど。自分が早々に取りこぼしていった記憶の断片を繋ぎ合わせたような感慨に、飛び立つ鳥の影を追うでもなくスカーフと髪がたなびく姿を見つめていて。口近くで留まったままの煙草が、ちりつく灰を零している事へも意識はおざなりだった。)……必要なもの?(だから反応は、少し遅れて。中途半端に持ち上げたままにしていた手は、掴まれてから気がついて、いざなわれるが儘──)……えぇー……(二度目の間の抜けた音。閑散とした場に不釣り合いなものがある事はまだ、百歩譲って飲み込めるとして、)……オトコをベッドに誘うのはちょっと、君には早いんじゃない?(他人に見られたら、なんて考えも今は放っておくとして。引かれる儘の足取りで、ぽすんと腰が落ち着いたのはちょっと感動的なくらい柔い。焦げ付きでも作ってしまいそうな煙草は、一旦唇に咥えてからポケットを漁り、もう少しを残して吸い殻入れにしまう事にした。煙草共々しまい込んでから、ふかふかの魔力に吸い寄せられるようにずるりと傾いだ半身が、その寝具にしな垂れるのも時間の問題だろうか。未だ繋がれた手が生きているなら、引っ張るようになってしまう彼女へと見上げる目を向けた。)……君も一緒に寝る?
2021/12/29 05:41 [89]
bice
ビーチェ
2021/12/29 23:59 [94]
(別にからかってないのに、とは唇をとがらせた女子高生の言。人目を気にする思考なぞこの頭には備わっちゃいないし、セーラー服を着ていても子供である自覚はない。あくまでいつも通り、自分は彼と対等な隣人だと思っている。だからこそ、すっとぼけられたりはぐらかされたりすると、すぐに臍を曲げるのであった。流石に鳩尾は痛かっただろうかと、彼の唸り声にはちらり様子を窺う一瞬が差し挟まっただろうが──騒がしい女の様相を見て感慨を抱く彼をよそに、迷いなく腕を引く手は力強かったろう。今日は何故か身体に違和感があるけれど、でも普段より軽くて心地が良い気がした。「そう、必要なもの!」先の拗ねっぷりはどこへやら。明朗な声を響かせて、ベッドまでご案内。屋外ベッドの異様な光景に対して何ら違和感を感じることもなく、大人しくふちへ腰を落ち着けてくれた彼の姿を見下ろしたなら、満足げに頬を緩ませる。)……そう? センセをベッドに誘うのはむしろ遅すぎたぐらいだと思うけど?(相手の言葉にはきょとーんと目を丸くして、軽く首を傾げた。その言い回しに男女のあれそれが含まれているように感じても、あまりピンと来ないというか、やっぱり“早い“という感覚はない。じっと煙草を吸い殻入れに捨てる様を見守って、次いで彼の身体が傾いたら、うんうんと頷く相好がこれまた嬉しげだったろう。なぜだったかはわからないけれど、自分はずっと彼に柔らかくて広いベッドでゆっくり寝てほしいと思っていたのだ。そしてそこには、当然のように自分の姿はなくて──だから、「私も?」繋いだままでいたせいで突っ張った手を、離そうとした瞬間。こちらを見上げる双眸と目が合い、固まる。しばしの無言ののち、)…………センセがオンナノコを誘うのはいいの?(眉尻を下げるようにしてふはっと笑うと、手を握り直して。どさりと彼の隣に勢いよく倒れ込むとしよう。スプリングが軋んでやわらかなマットが揺れる。横を向いたら、彼と目線の高さが同じになるだろうか。そうしてふと、空いているほうの掌を黒い髪へと伸ばして、そのセットを崩すみたいにわしわしと撫ぜたがった。)ふふ、もさもさね。(彼に抵抗されなければ、降りかけていた前髪を完全におろしてしまって、小さな笑声をこぼしたろう。それから、まどろむように瞳を細める。ふかふかのベッドは気持ちが良くて安心するけれど。同時に、少しだけ目の奥が熱くなるような気もした。)……センセは、さびしくない?(不意にこぼれ落ちたそれに、脈絡なんてものはない。ただ、彼の声を聞きたかった。)
2021/12/29 23:59 [94]
sensei
センセイ
2022/1/4 21:14 [118]
(自分の行動を見守り、時折喜色をともす様はなんだか見た目よりも大人びて見えたのに、そう思った矢先にまんまる大きな目を見開く姿はやはり、幼く感じられる。同時に、なんだか肩の力が抜けたような。遅れて紡いだ「君がそう言うならそうなのかもね」は、決して投げやりではなくて、その通りの本音から零れ落ちた音だ。少しちぐはぐで、けれどもしっくりとくる不思議な感覚。それらも一度寝台に横たわってしまうと、そんな柔らかさに溶かされていくような気がする。)え……別にやらしいことする訳じゃないし……とか言い訳っぽい事いうのなんかやだな。……──まあ、でも。君が相手なら、やっぱりいいんじゃない?(彼女の硬直から程なく、今度は此方が固まる番だった。そういわれるとなんだか急に、駄目なことをしている気持ちになってしまう。難し気に眉根に刻まれている皺が一層深くはなったけれど、それも束の間だった。ふたりでも十分に広い面積に、彼女のスペースにゆとりを作るよう少し後ろ側へと下がった。ふわりと舞う毛先が落ち着くまでを眺めて。フェンスに掴まっていた時やお互い地に足ついた時とも違う、ようやく真正面に視線が交わる位置。その双眸になにかを思い出したがるような脳裏がしばし、物言わず彼女を見つめていたから──ふいに伸びてきた手に対してまったくの無防備だった。ぐしゃりと崩れた前髪に視界がうすら陰る中、)君がもさもさにしたんだよ……。大体君に言われたくは…、……(すっかり固めていた髪がほどけて、視界にうねる癖に、そういえばいつも苦戦していたのだ。表情の薄いままであれ、笑う犯人につい口をつきそうになった言葉は着地点を失って音を潜めた。ちら、と先も目に留まった彼女の毛並みは艶やかななのに、どうしてそんな事を言い返したくなったのだろう。 結局、空っぽな引出しからは何も答えを見つけられず、見つめていた目に瞼が掛かったのと同じ頃、自らもまた重たい瞼を下ろしきった。)──……、 さびしくないよ。君がいるし。(だから、遅れて零れた言葉はまるで、微睡みの淵からこぼれるうわ言のような。ずっと握られたままの手から感じる体温を、一度指先で摩り、側臥位の下にした肩を居直した時、ポケットからはまっしろなネームプレートが零れ落ちる。)おやすみ、   ……、(意識が沈む間際。掠れて声量にも乏しい声音は、平素は呼べずにいる──或いは忘れてしまった誰か名前を、ただしく呼べただろうか。それも分からぬまま、夢の夢に沈んだ束の間のこと。)

(翌朝、いつもの固く狭い場所から目覚めた男がなにか、夢の話を語る訳ではないけれど。物言わずに呼び寄せた彼女の毛並みを一度、わしゃわしゃかき混ぜてみたのは、ちょっとした意趣返しとも言えたかもしれない。)〆
2022/1/4 21:14 [118]
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