(とうとうさいごの一箱に手を付けた。ずっとお守りのように胸ポケットにしまっていたそれを開けるまでは、今にもくち果てそうな吸い殻をちまちま使いまわしたり、その辺に自生している適当な雑草を詰めてみたりと、あまりお行儀はよろしくない疑似禁煙、もとい代用行為でしのいでいでいたのにだ。あの夢を見たのがひとつのきっかけであったようにも思う。夢に見た欠けらたちは既にいくつか取りこぼし始めていたけれど、少しでも脳裏にこびりつかせるように。そんな思考も彼女には筒抜けであったとしても、口頭には、「だって吸いたくなっちゃったし」としか言わなかったけれど。決まった散策範囲の中、とうとう崩れ始めた建物の影に通ったことのなかった小道を見つけた。その先に続く寂れた歓楽街で、おんぼろではあったが扉の開いたベッド付きの宿泊施設を見つけた。なんだか煙草を吸いだしてから運がついてきている気がする。 ──その日、ごろんと転がった男は未だおぼろげな夢心地最中だった。埃っぽいベッドに時たまくしゃみや鼻が出るけれど、寒さは和らぐし、寝付きは良くなった気がする。寝違えだってしない。二度寝の構えではあるが、浮上した意識に彼女の存在は現れるだろうか。どれほどそうして起床を渋ったあとだったか、ようやく起こした上半身に軋む背骨を鳴らしながら──まずは起床後の一服の時間だ。)……はよう。なんだか冷えると思ったら。雪でも降りそうな空だね。(節約中のマッチから手短に、先日半分吸い残した煙草に灯をともした。そうして窓際の錆びた柵に腕を預けながら、意識は彼女へと向けながらも、視線は頭の高い建物の隙間──どんよりとくすんだ空を見つめている。)外に出る気を失くすな……今日は一日引きこもっていようか。
2022/1/2 00:14 [14]
(身体に悪いって言ってるでしょ〜と、お決まりの台詞がすぐに出てこなかったのは、ふわふわとしたあたたかな夢の残滓を、その紫煙に重ねて見ていたからだ。でも、そのさいごの一箱がなくなってしまったら。今もあなたの身体に染みついている煙草の香りが消え去ってしまったら。あなたはどうなってしまうのでしょう。自分はそれが、少しだけ心配でもあったのだ。「ちょっとだけ、先っちょだけよ!!」とはいえ、あなたの気持ちも分からないでもないから、結局そうやって毛をわさわささせて譲歩の意を示したろう。しばらくして、かろうじて形を残していた宿泊施設を見つけたなら、あの夢はもしかしたら予知夢みたいなものだったのかもしれない、と思ったりもして──なんにしたって、念願のマトモな寝床である。毛玉は素直にベットの存在に喜び、未だかつてない高さで飛び跳ね回った。はしゃぎすぎて少々息が荒かった。多少の埃っぽさにはこの際目を瞑ろう。あの夢に出てきたような真っ白でやわらかなベッドは、きっともうこの世界には存在しないのだから。毛玉はいつもどおりもふりと横たわるあなたの上に飛び乗って、「今日もたのしい一日だったわね、おやすみなさい。センセ」いつもどおり挨拶をして、あなたの寝顔を眺める間も無く、あなたの瞼が落ちると同時に消えてゆく。──次にふと目を覚ました時には、昨日よりも身体がいくらも軽かった。毛並みももうモサモサじゃなかったろう。けれど、それと同時に。こんな朝はもう、何度も訪れないだろう──と、なんともなしに感じた。野生の勘か、女の勘か。もしくはあなたが無意識のうちに拾い上げて来た“人間の痕跡“が、そう思わせたのか。)……おはよう! そうね、雪が降る前にちゃんとした寝床が見つかってよかったわ! って、焚き火を作るより先に煙草を吸うんじゃないわよ〜っ!(大人しくベッドの端で丸くなっていた毛玉が、ぽよんぽよんと忙しなく跳ねるのは、あなたが上体を起こしたあとになったろう。どすんとあなたの身体にぶつかって、くっついたまんまの状態で、続いた声を聞いた。それから一瞬、らしくもなく躊躇うような間があったのは、気づかれてしまうだろうか。)……センセとふたりでぬくぬく引きこもるのも悪くはないけれど。雪が積もったらそれこそ外に出られなくなっちゃう。……今のうちに、色々調達に出ておくべきね!!(もっともらしいことを言って、しっぽでつんつくとあなたの背を突こう。ああ、目も口もなくてよかったなと、思いながら。)
2022/1/3 20:14 [35]
……先っちょだけじゃ吸った気しなくない?(思わずの突っ込み。男の勝手にぽろぽろ取りこぼす側頭葉と同じく、煙草もまたぼーっとしているだけでぽろぽろ消費されて燃え尽きてしまうものだろうに。故に刻む時間を大事にしつつ、すっかり湿気ってかつての風味も思い出せない愛用品をちまちまと延命させている。束の間の隠れ家となり得そうな住居のなれ果てに、自分以上に喜んでいる姿に茂った眦を微かに和らげるのは束の間で、「どうどう」と動物を宥めでもするような仕草で落ち着かせようとした一幕は果たして成功しただろうか。返すオヤスミの音は手短に、もふる感触から眠りに落ちて、またあらたな一日を迎える。)これも一応火だしね……。(、薄く煙が立ち上っている煙草の先端を、すっかり冷えている掌で覆ってみる。大して暖が取れる訳ではないけれど、ものは考えようだ。昨晩に続く元気な毛玉の動きを辛うじてけだるげな目線に追い掛けていたから、程なくぶつかってくる恒例にも身構えはできていた。此方もまた、焚火と違って直接的な暖が取れるわけではないとはいえ、毛を逆立てでもするようさわさわしているとほんのりと、寒さは和らぐ気がした。)今日はもふもふって呼ぼうか。……?(触れた感触を正直に、聞こえようによっては揶揄いでもするように伝えてから、少し引っ掛かりを覚えてじっとその姿を見下ろした。スローテンポな自分と対照的に、彼女の声はいつも明朗でタイムラグなく聴こえてくる。それが一瞬遅れたような間は、けれど、何かを問うには至れず吐き出す煙ばかりを揺らめかせている。あと数秒遅れたら口ずさんでいただろう「どうしたの」は結局しまい込んで、返答はいつも通りに。)この天候は神様って奴の、ぬくぬくしていなさいって天啓だとも思うけどね…。ほんとに行く?焚火はおあずけ?(悲しきかな、学生はとっくに卒業した勤め時代も天候による欠勤は認められなかったのに、こんな世の中でもそれは変わらないのだろうか。嘆くぼやきと共に、手持無沙汰にもふもふを撫でていた手はつついてくる尾っぽへと向かい、叶うならば冷たい指先が、悪戯なその動きをとどめるよう先端を掴まえようとしただろう。それも半分の煙草が尽きるまでのことだろう。いつもの鞄を握りしめて扉までたどり着けば、目指す先は。)……まだ行ったことない場所に行くのもなあ。いつものルートを虱潰してもいいんだけどね。(ここに来た道と、或いはその先にまだ続いていく道と。白い息を吐きだしながら、二者択一を伺うように、彼女の助言を求める目を落として。)
2022/1/5 14:29 [58]
(一度火をつけてしまえば燃え尽きるしかない煙草は、不健康以前に、見ていると寂しい気持ちになる。だから余計に、吸っている姿を見たくないのだと、あなたの突っ込みを聞きながら気づいた。動物扱いには「こらっ」としっぽでその手をはたいて不服をあらわにしたろうけれど、本格的な寒さが来るより前に無事住居らしい場所へたどり着くことが出来たのには、純粋に安堵した。もしあなたに何かあったとしても、自分では、あなたを救うことは出来ないから。「それは暖じゃなくて嗜好品でしょうがっ」「やけどしちゃうからやめなさい!」煙草の先端を手のひらで覆うあなたを、叱るような声は相変わらずやかましかったろう。自分よりもずっと大きな身体にぶつかって、ぐりぐりしていると、毛の流れに逆らう形であなたの手がこの身を撫ぜる。それが少しくすぐったくて、わさわさと揺れた。)もふもふ! それなら良いわよ!(わずかな間などなかったかのように、毛玉は上機嫌な声を跳ねさせる。その後に続いたやりとりの中でも、明朗な声色が遅れることはなかった。)神様なんかより私のほうがず〜っとセンセのことわかってるし、たいせつに想ってるわ! いくったらいくの!(天啓は独自の理論でばっさりと切り捨て御免。だいたい、本当に神様がいるのなら、人間の文明を滅ぼしたのだって神様だ。そんなの絶対あなたの敵じゃないか。ふんすと膨らんだしっぽであなたを急かすようつついていたら、不意に先っちょを掴まれてひゃわっと毛が波打った。逃げはしなかったが、うにゃうにゃもじもじとしばし大人しくなったろう。──やがて、吸い殻となってしまった煙草を、黙って見つめる間をおいて。その匂いを追いかけるようにして、あなたのあとについてゆく。ぽよぽよと数度跳ねて、意見を求められるころにはあなたの隣に並んでいた。)……ううん、少しだけ、いつもと違う道を行ってみましょう。(しんと静まり返った冬の空気に、若干大人びた娘の音吐が溶ける。それから、あなたが扉を開いてくれるなら、ぽよんっと先に外へ飛び出そう。あなたを先導するように、はじめて歩く道の上を転がって──ぴたりと、不意に動きを止めた。道の先。とおくのほうを、じっと見る。まだ肉眼では捉えられないけれど、たしかに、ひとの気配がした。話し声は聞こえてこないから、ひとりだろうか。へなりと、尻尾がコンクリートの上に落ちる。このまま進めば、きっと。あなたは出会うだろう。あなたとおなじ、にんげんに。本物の、”ともだち”に。そうしたらもう、煙草が尽きる日を恐れなくてもいいはずだ。そうしたら、あなたはさいごまで一生懸命、生きてくれる──よね? )………センセ、寒いわ。だっこして。(もぞりと振り返った毛玉は、あなたを見上げてわがままを吐いた。今まで一度だって、寒さや暑さを訴えたことはなかったくせに。)
2022/1/7 01:21 [77]
(ちかくに聴こえる声色は、始めからそうであったかのように、そばにある事を当たり前に感じているものだ。多くのものを失くしてきて尚そばにいてくれる存在に、声に出して有り難がる機会こそ乏しかったけれど。不服げな音も、しかるような声も。もういい齢をした大人が、涼やかな叱咤を当然として受け入れ甘受している。「たいせつ、」そう喉奥に噛み締めるよう反芻した時には手前勝手な気ままさで撫でていた手も、大切のかたちを確かめるような柔さを帯びていたか。)……はいはい。これじゃもふもふの方がよっぽど”センセイ”だね。(声色はいつもと変わりない低速で緩急にも乏しい擦れたテナーでも、その時は少し、笑うように語尾は揺れた。猫が動く標的をとらえるように。ぱしりと毛先を目論見通りに掴まえられたはいいが、途端毛並みがそわつくさまにはそろりと開いた手が、再びその背にあたる丸さを撫でてみて。──吸い殻は、ベッドの脇に置いておく事にした。夢の名残の吸い殻入れはとっくに失くしていたし、こうして置いておけば、また戻ってくる事が出来た時の指標──あるいは、いるかも分からぬ生存者が訪れた時、他に人間がいる希望をもってくれるかもしれない。とんとんと履きつぶした靴を爪先に叩きながら。ひらいた扉の先、はじめに進んだ彼女の後を追うように一歩を踏み出しはしたけれど──)……?(今度こそ、明確な違和を抱いた。男の視線は、前方ではなく少し前、低い位置にいる彼女を見つめていた。表情は分からない、けれど感情は分かりやすいと思っていたふさふさな存在。どうやら自分の体調とも連動しているらしい彼女の毛並みは、今朝はあれだけ艶やかだったのに心なし、元気をなくしてうなだれているようにも見える。寒い、と、はじめて聴いた主張に陰った前髪に覗く目が瞬いて。それから彼女の傍で片膝をついて、片手にふわりと抱き上げた。)……どうしたの。体調わるい?(ようやく、その疑問が口に出た。いつもとは調子の違う片割れの存在。まだ見ぬ先より、未来よりも、今この瞬間。男が気にかけてしまうのは、そばにある事を当たり前と思っている彼女の存在だ。)
2022/1/8 09:50 [89]
ビーチェ
2022/1/9 02:38 [100]
(この毛を撫ぜるあなたの手つきが、ふと柔らかくなったことにも気がついた。自分があなたを何よりも大切に思っているように、あなたも、自分の存在を当たり前のように受け入れて、大切にしてくれていることを知っている。理解している。だからこそ、すぐに“本当のこと”を言えなかった。「あら、じゃあ“センセイ“って呼んでくれてもいいのよ。私はセンセをモサモサって呼んであげるわよ!」あなたの語尾が揺れたのを感じたら、毛玉の声色は一変して楽しげに弾んだろう。しっぽの先を掴まれても嫌がりはしないが、背中を撫でられた時のほうが、ゆるゆると丸さが弛緩した。──残された吸い殻は、あなたの存在を証明するに違いない。けれど、毛玉の存在を証明できるものは、何もない。あなたの記憶しか。 そういう、曖昧な存在なのだ。ひとりぼっちになってしまったあなたを、この世に繋ぎ止めておくためだけの、“同伴者”。毛玉にはその自覚も、誇りもあって、でも。──でも、身体がみっともなく震えそうになるのはなぜだろう。)……ううん、(あなたの目に映るとおり、先程までのふさふさは萎びてくたびれていた。問いかけにはゆるりと身体を横に振って否定の意を示し、伸びてきたあなたの片腕の中に大人しく収まろう。そのあたたかさと煙草の匂いに、自然と毛玉の力が抜ける。すり、とあなたの胸元に身体を擦り寄せたら、くったりしていたしっぽも少しだけ振れた。しばし、そのぬくもりにまどろむよう身を任せる間があって、)…………ひとがくるわ。動物じゃなくて、にんげん。(やがて、ぽつりとかぼそい音がくぐもって落ちるだろう。耳を澄ませれば、その声がどこか泣き出しそうな響きをしていたことに、気づいてしまうかもしれない。)……ちゃんと、あいさつしなきゃダメよ。名前もね、センセイじゃなくて、ちゃんと……思い出して、呼んでもらうのよ。(あなたの反応を伺わぬまま、畳みかけるように言葉を連ねる。他の“にんげん”と出会ってしまったら、それが自分たちにとって別れの時になると。なんとなくわかっている。きっと、あなたも。だから、)……私は、この日のために生きてきたんだから……"さびしくない"わ。(万が一にも、あなたが引き返してしまわないように。目一杯のあいを込めて、精一杯の強がりを吐こう。ぐり、と毛並みをあなたの身体に押し付ける。抱きしめるみたいに。自分の温度を、あなたに覚えてもらいたがるように。)
2022/1/9 02:38 [100]
センセイ
2022/1/10 17:35 [117]
じゃあ、今日は名前の取り替えっこでもしようか?(どちらも名前とはいえないような名称ではあったけれど、そんな他愛のない戯言じみた会話をもまた置き土産とした道中だった。いつもはひとりでに跳ねる存在は、体力や膂力に自信のない平均以下中年の手には少々重い。触れてみればより分かる、毛艶の悪さに片手が有していた鞄は彼女との交代で地におろした。ぐっと持ち上げる瞬間には「よいしょ」なんて場にはそぐわぬとぼけた掛け声を上げながら、動きばかりで否定を示している丸みを撫でつけて、歯切れのわるさの理由がのぞくまでは幼子の機嫌を取るようにとんとんと、決して器用ではないがあやすつもりだった。身を寄せる感覚に心持ち抱きとめる力を強めていれば、僅かでも振れて見えた尾に眦を和らげた一瞬から──その目を、呆けたように瞬かせた。)……にんげん?(まるで久しぶりに聴いた単語の意味を、思い出しでもするようにかみ砕くまで時間がかかった。世界がこうなってから、一度だって出会うことのなかった自分とおなじ姿かたちのもの。今、静かなこの場には自分と彼女の声色しか聴こえないから、声量乏しい男の声の余韻がついえた頃には、道を進んだ先からだろう、かすかな物音がようやく耳に届くのだろうか。ぽけっとした表情のままその方向に向きかけた瞳は、彼女の声色にひかれて下降する。彼女の言葉に割って入らないのは今日にはじまったことではなかったが、矢継ぎ早な言葉が意図して彼女がそうしていることも、いつもの鈴の音が震えて聴こえるのも、全部間違いではないはずだ。)……覚えてないよ。あいさつの仕方も。名前だって。……たぶん、君がいなきゃ一生思い出せない。(──直接的に言われた訳ではなくとも、その言葉たちが示すものが、今たしかに腕に抱きかかえている存在との別れをにおわしていることは覚れるからこそ。ようやく絞りだした音はトーンこそ常と変わりないものだが、気の抜けたような呆然さを宿したままだ。だって、あんまりにも急すぎるじゃないか。)……うそだ。(脳裏のかすかな残滓。夢のあと。聞き覚えのある科白に、男はゆるりと首をふるった。──そうして人間と合わせようとしてくれていることを、未来を慮ってくれていることは分かっていても。)俺は、……べつに同じ境遇のにんげんを探すために生きてきたわけじゃないよ。傷を舐め合う気も、自分や世界の未来だって、どうだっていい。……大事なものだけ抱えていられたら、それでいいんだ。(四肢のない身体の、それでもあたたかな力を。忘れたくはないし、手放したくないとも思っていた。死んだように生き延びて、いつか朽ち果てそうな男を生かしてくれたのは、まぎれもない彼女だけだった。だから── 落とした鞄を背筋を屈めて拾い上げて。くるりと踵を返す所作を、果たして彼女はなんと言うのだろう。そうして見て、自分の手が震えていることに気づいた。選択の重みではない。いつも傍にあると思っていた彼女の存在の朧気さに、ようやく気が付いたせいだ。)……お互いがさびしくなければ、それでいいんじゃないのかな。……俺は、間違ったことを言っている?
2022/1/10 17:35 [117]
ビーチェ
2022/1/13 01:39 [135]
(名前の取り替えっこについては喜んでぶんぶんしっぽを振ったあとで、「いや名前っていうか、あだ名じゃない!」なんて、今更にすぎるツッコミをいれたろう。けれど、モサモサでももふもふでも、本当はあなたが呼ぶ名前ならなんだってよかった。──とんとんと、ぎこちなくあやすような手つきに、すりすりと擦り寄っていた身体は大人しくなる。その手のあたたかさをしっかりと感じてから、毛玉は覚悟を決めた。あなたに隠し事はしたくなかった。自分が、生身の人間に叶うとおもったことも、なかった。だって自分は、ただのしがない毛玉としっぽだ。にんげんのように微笑むことも、涙を流すことも出来ない。あなたの額にキスをすることも、手をつないだり抱きしめたりすることも出来ない。夢の中でしか、あなたの寝顔を見ることだって出来ない。そんな存在が、なにかを望めるわけがないじゃないか。)そう、にんげんよ。(道の向こうから、生き物の足音が聞こえてきた。ああ、本当に。この寂れた世界に、あなた以外の人類が残っていただなんて。どんな奇跡だろう。やさしい人だといい。出来れば、料理上手な人。食への意欲が薄いあなたに、たくさん肉を食べさせてくれるような、面倒見の良い人がいい。女の子のほうがきっと良いのだろうけれど、想像したら、それはちょっと複雑でもある。でも、あなたの良さをわかってくれる人なら、任せてもいいかな。「思い出せる、わよ……」上から落ちてくるあなたの声は、突然のことに頭が追いついていないようだった。でも、自分はあなたから生まれてきたのだ。自分があなたのなかへと戻れば、覚えていないことだって、思い出せるかもしれない。毛玉は、身を押し付けるついでにしっぽをあなたの胴に回した。──さびしくない。さびしくない。心のなかで繰り返す。きっとそのうち、この意識も氷みたいに溶け出して、なにもなくなるんだろう。その時を待つように、ぱさついた毛玉はじっと息をひそめたけれど。)……センセ……?(身体を擡げて、あなたの顔を見上げる。次いで降ってきた言葉たちに、ふるりと毛並みが揺れたろう。乾いて萎びていた毛が、その時だけしっとりと濡れたように感じられたかもしれない。虚を突かれて動けなくなっていた毛玉は、あなたが鞄を拾い上げて踵を返したところで、ようやく我に返り焦った声を響かせる。)………っで、でも……私はセンセになにかあっても、助けられないわ。具合が悪い時に、薬を探しにいってもあげられないし……ほんもののにんげんは、私よりずっと、(あたたかくて、やわらかいはずなのに。 さいごは、喉の奥に引っかかって上手く音にならなかった。あなたのことを思えば、自分は今すぐこの腕の中を飛び出して、あなたを無理やりにでもあの道の先へ連れていくべきなのに──震える手のひらに、気がついてしまった。あなたの選択が強がりではないことも、あなたが今、何に怯えているのかも。わかってしまったから。「でも……」かすれた音吐は、あなたの胸元でくぐもって解けた。いいわけがない。この選択はまちがっている。きっと、今を逃せばいつか後悔する。かつてあなたを愛していただれかだって、同じことを言うはずだ。 だけれど、)………………さびしい よ………もうすこしだけ、 いっしょに、いたい………。(みっともない涙声が、あなたの腕のなかで震えた。ずっとなんて贅沢は言わない。でも、まだ、まだあなたとお別れしたくない。そんなわがままが、許されるのならば。 ずびっと、鼻もないくせ鼻水を啜るような音を立てて、ぴったりとあなたにくっつこう。私はあなたに作られた”ともだち”だけど、この気持ちは”わたし”のものだと、はじめて思った。──ふたりきりの世界に、ひらひらと白い欠片が舞い始める。選ぶべきだった未来を、かき消して忘れさせるように。ふたりの進む道には、ひとりぶんの白い呼気だけが残されてゆくんだろうか。)〆
2022/1/13 01:39 [135]
センセイ
2022/1/15 04:58 [147]
(今度こそ、自分の耳でもたしかにその物音を聞いた。四つ足の動物とは違う、歩行のリズムに連なるいくつかの音。同時に自らの心臓が跳ねたのも分かったから、先ほどから正常にしきれていない思考共々落ち着けるよう深呼吸に胸郭をふくらませて。生き残りがいる可能性を、今まで考えなかったわけでもない。しかし、それはあくまで自分と関わりのない範囲での空想話だ。未だ球を保っているかも分からないこの星のどこか遠くのこと。腕にいだいた彼女の存在と、果たして天秤にかけたときにどちらに傾ぐかなんて、無意識であっても分かり切っているというのに。ぐっと押し付けられていた毛並みが、気づけば尾を回すように包んでくれている姿を見下ろして。その意図は前へ踏み出したがらない己に対する激励にも思える一方、予見する別れを惜しんで寂寥を紛らわせる行為とも受け取れた。そして、己の零した否定に、抱えた毛艶が変わる兆しが見えるならば。 男の出すこたえは、その時すでに決まったも同然であったかもしれない。)……ビーチェ。(ずっと適当な愛称で呼んできたくせ、その時になって彼女が名乗ってくれた名前を口ずさんだ。はじめて口にする馴染みの薄い言葉を、けれど確かに噛み締めて。)俺は、薬を探しに行ってくれる相棒を欲しいと思ったことなんてないよ。……ずっと傍にいてくれて、ああだこうだと口を挟んでくれるひとりがいれば。俺の世界は、捨てたものじゃあないんだ。(世界はもう、とうに変わり果ててしまったけれど。これまでの軌跡で彼女とそうしてきたように、或いは、もう記憶もおぼろげになった過日の在り方のように。彼女が何を言おうとしても、そして言いよどんだとしても、そのまんまると鞄を抱えた足は、既に来た道をたどり始めていた。足跡を書き換えるようにして、寒さだけではないだろう、感覚が鈍る指先が震えて大事なものを取りこぼしてしまわぬよう力をこめながら。嗚呼、でも、やはりだんまりになってしまった彼女の様子を伺ってはしまうから、)……── うん。(顔が見えるわけではないのに、泣きはらしたような声が聴こえるものだから。どこかから涙が零れているんじゃないかと、鞄ごと持ち上げた手の指先がその表面をひと撫でする。それから結局、男は短く頷くことしかしなかったけれど、ぎゅっと返す力を込め直せば心持ち歩幅は広がり速度も増した。そうしていつもの散策範囲まで戻ってから抱えたままの毛玉を揺すりながら、髪の合間から様子をうかがう。)……ほら。いつもの声と毛並みに戻ってくれよ。君が案内してくれないと、方向も、前にみつけた水場だって分からないんだ、俺は。(誇れる訳もないことをのたまうのも、いつもの明るい声での叱責待ちだ。「あとでいつもより念入りにブラシも掛けてやるから」、そんな声を連ならせる低い声色ひとつの後ろには、薄らと積もり始めた雪がその足跡までもを隠してくれるだろう。 自分はノアになれなくていい。正しい答えなんて、世界がほろんだ時から失われてしまったのだから。今はただ、これ以上大切なものを取りこぼさぬよう、失くしてしまわぬように生きていたい。そうして自らすすむ道を、確かめるよう踏みしめた。)〆
2022/1/15 04:58 [147]