よう、きょうだい。世界の秘密を教えてやるよ。(ある朝、男はこの世で唯一の友人に向かってそう告げた。そこはほとんど更地のような平原で、オレンジ色の太陽が遥か遠くの地平線を焼くように染め上げていた。その朝陽に照らされて、男が立つ数十メートル先に、一本の樹が生えていた。見るからに硬い幹と複雑に分岐した枝、青々と茂る葉を持った、樹齢百年はあろうかという大木だ。男はあるものを手にしていた。朝食のフルーツのように軽々と宙に放り投げてはキャッチするのを繰り返す、それはレモン型の手榴弾だった。以前、軍施設の廃墟から持ち去った物のひとつだ。)見てろ。(そう言って、奥歯で安全ピンを引き抜きレバーを倒すと、何の躊躇いもなく樹木目掛けて投擲した。綺麗な放物線を描いたそれは果たして樹の足元に着弾し、爆風の余波が赤い髪とコートをなびかせる。やがて粉塵が収まり静けさが戻れば、吹き飛んだ芝と抉られた大地、そして傷ひとつない大樹の姿が見えるだろう。)どういう仕組みかは知らないが、どうもあらゆる衝撃に耐えうる特殊な物質が存在するらしい。で、ごくまれにソイツを持ち合わせた自然物が形成される。この樹もそうだし、前にのぼった石塔も、そういう特別な石を切り出して築いたんだろうさ。生き残った動物は、その時ちょうど特別な木の実でも食って、例の物質が体内に留まっていたんだろう。(首の後ろを掻きながら友人がいるであろう方角を振り返った。気だるげな眼差しが翡翠の煌めきを探して揺蕩う。)なあきょうだい、解けた謎ほど退屈なモノはないよな。俺が「仕事」をしていた頃からずっとそうだった。(さして面白くもない映画のエンドロールを観終わった時のような顔で呟いて、男は足元に置いていた鞄を大儀そうに持ち上げた。厳然と佇む巨木を除き、辺りには見回すかぎり何もない。それでも男の記憶と土地勘が正しければ、暫く北へ行けばかつて集落だった土地があり、南へ進めば長い川があるはずだ。あるいは西や東へ、まだ見ぬ土地を求めて足を伸ばしてみるのもいいだろう。)これからどこへ行こうか。
2022/1/1 05:12 [3]
Unknown
2022/1/2 20:51 [23]
(秘密という言葉の響きを好いていた。その謎が明かされるまでの間、わくわくとした気持ちでその秘密の中身を考えることが出来るから。――逆に言えば。解けた謎の中身に興味はない。彼がそうであるように、此方もそうだ。見てろと告げられた通りに視線が持ち上がる、そうして手榴弾の爆発を受けて尚、その地に変わらない姿で存在し続けている大樹を眼前に眺めて知ったように。世界の秘密を知った、否、彼によって知らされた「それ」は、驚いたように瞳を丸めるなんてことはしなかった。ただそうであることを受け止めるように、動かない無表情は、彼の言動によってくるくると変わる常の表情と打って変わって。)どこでも。(どこへ行こう、の問いに対する返答はシンプルなものだ。強弱の、緩急の薄い、平坦な声の色。いつかみたいに透けていた身体の色も、今日は透けてもいないしおかしな向きに捻じ曲がってもいない。極普通に捉えるなら、きっとただの人間のようにさえ見えていただろう。そうあるわけがないと、彼も「それ」も認知していることを除くならば。)僕はどこへだって行くよ。アダムが行きたい場所ならどこへでも。アダムの意思があるから僕が在る。(だからそれは、”逆に言えば”。彼の意思次第でどうとでもなると、最初から知っていたこと。軽く肩を揺らして、大して強くもない風を胸に受け止めるようにしてみても、この身体は本当の意味では何も感じ得ることが出来ない。それだって最初から分かり切っていたことだ。――最初から。)アダムがアダムだけな限りは、ずっと一緒。(呟くにも似た、それでもはっきりとした声だった。遠くで、彼と自分。それ以外の気配が何処かで動いているのを感じていた。直ぐに近付くには至らないだろうが、それが時間の問題だということも分かっていて。自分がそう分かるということは、彼の五感が悟ったということに他ならないから。終わりは近いのだろう、そう思って、先程彼が手榴弾を投げつけた大樹にもう一度、下から上へと目線を流した。或いは自分もこんな風に、同じ処に立ち尽くしている存在だったら余程良かったのかもしれない。彼と関わらず、ただそこに在れたら。それは自己の存在意義を否定するのと同義だと、頭の中では理解していても。)
2022/1/2 20:51 [23]
(男が振り向いた先には、意外にもまっとうなヒトの形をした「友だち」がいた。その人体には過不足も、不自然な点も無く、指の一本も動かさず、表情すら変えず、あたかもマネキンのようにそこに直立していた。唯一口元だけが動き、平坦な音の連なりを耳に届ける。彼はあくまでも己の認識の内側で生き続ける存在だ。男が接触を試みるかぎり、必ず目の届く範囲に見え、あるいは聞こえる距離から語りかける。)そうかい。(訝しげに片眉を上げては鞄を肩に掛け向き直る。どちらかといえばお道化た印象が強い平素とは打って変わり、此度の台詞は圧倒的に正当で、妙に達観してすら聞こえたからだ。)まるで、俺が俺だけじゃなくなる時を見越したような言い方だね。(男の五感ないし第六感が拾ったであろう何者かの気配は、今のところ本人の意識の片隅にも上っていない。しかし相棒の姿形と言動の違和感を繋ぎ合わせれば、相手にとって何かしらの異変が起きたと察するには十分だった。口端をかすかに吊り上げた、ある種のポーカーフェイスを維持しながらも、意味深な言葉の真意を探ろうとして、青い視線が対峙する顔貌を一筋に射抜く。その試みが成功してか、それとも男が先に折れたか。何かしらの形で決着がついた後、ようやく足の向きを変えると、「なら東へ行こう」と樹に背を向け歩き出すだろう。東のかたには楽園があるらしい。)なあ、友だち。一回アンタも肉体を持ったことがあっただろ。(ふと話題に挙げたのは以前見た夢の内容だった。殺風景な平原の真っ只中。ほとんど変わり映えのない景色を行く足取りはさほど速くない。過去の生き残りを片っ端から掘り出して詰め込んだ鞄の中身は、抱えて歩くにはいささか重い。)あんな風に、夢でも幻でもない人間の身体が欲しいと思うかい。(岩肌に擦れるだけで容易に傷つき、夜風に晒されて眠れば風邪を引き、関節の可動域も限られる、脆弱で不便な肉体。それを彼は欲するのか。欲するとすれば、その理由は何か。前を向いたままの問い掛けに深い意味はない。ただ、例の夢が未だにどこかで引っかかっていたものだから。乾いた風が吹いて、足元の草を撫でるように揺らす。)
2022/1/4 04:41 [40]
Unknown
2022/1/4 21:57 [51]
(細めた瞳は未だ大樹を映しているだろう。そこに木が立っている限りは。立ち続けている限りは。「それ」と彼の関係性だって同じだ。彼の瞳が視認しているように見えるから、「それ」は此処に立っている。立っていられる。まるで、の言葉に返事は遣らなかった。射抜かんとする視線を真っ向に受けること何秒か、あっさりと顔ごと彼から視線を背ければ、行き先を決めたらしい彼に付いて行くのは当然のことだ。先程から変わらず、五体満足の身体のままで。それが奇妙だと思える人は、この世界に彼しか居ない。だって彼以外に「それ」は見えない。)……うん。(少しだけ、遅れて頷いた。歩くのも、少しだけ遅れるようにして彼を追い掛けている。前に回る気なんかなく、況してや横に並ぶ気もなく。肩に掛けられた彼の鞄を、持ち上げる手伝いをする力すら持たない薄っぺらは、それでも思い出していた。彼の言葉によって。彼は自分で、自分は彼。だというのにどうしてか、彼の心が今は読めない。)一緒になんてなりたくなかったよ。(まるで拒絶の言葉だ。彼の問いに正しく答えてすらいないが、嘗て見た夢の中身を覚えているからこそ、吐き出した過去を引っ繰り返すように唇は謳う。平坦だった声が、少しずつ、あの夢に近付いたように温度を持つ。)アダムがアダムで、僕が僕なら良かった。そうしたら僕達、きっと一緒に居られたんだ。(なりたくなかった一緒を否定して、彼と居たい一緒を欲しがる。前を向いたままの彼に此方の顔は見えないし、振り向かれても顔の中身を消去する手筈は充分に整っていた。)アダムにも教えてあげるね、僕の秘密。――僕今、どこだって消せちゃえそう。(それはたとえば、今。全てを消そうと思えば、その終わりを待たずして、身体ごと彼の前から消え去れることを示している。これは予感で、けれど確かな確信。根拠なんて何処にもないけれど、案外こういう時、神サマは味方をしてくれるのかもしれない。何だかどうしようもなく、彼が予期する前に消えてしまいたい気分だった。そしたら彼は驚くんだろうか。寂しがってくれるだろうか。それをきっと自分は見ることは出来ないけれど。)アダムがくれるなら欲しい。(そうして漸く、答えらしい答えを告げるのだ。人間の身体。それは彼一個体を軽んじるのではなく――一つから二つに成り、そして存在する。そうして”二人”人間であったならと、考えたことはもう、あの夢を見るより遥か前から。)
2022/1/4 21:57 [51]
(痛ましい本音が金槌のように後頭部を打てばこそ、男は衝動的に足を止め振り返った。だがそこに見出そうとした「顔」はあっただろうか。切実な悲願と秘密を打ち明ける声音だけが、なけなしの雨のように地べたに降る。)……。(普段の笑みはなりを潜め、いつになく神妙な面差しで唇を引き結ぶ。相手はどうだっただろう。首から上が丸ごと無いのか、文字通りののっぺらぼうと化しているのか、あるいはドーナツのように中央だけがくり抜かれて、その空洞越しに例の大樹が見えるのかもしれない。だがそんな事は重要ではなかった。ザッと草を踏む音が、ふたりの間に横たわっていた沈黙を破るだろう。相手の方へ歩み出しながら、男が口を開く。)やるよ。(微塵の迷いも滲ませない断言の口調。)それが出来るなら。俺の肋骨を1本捧げたっていいし、この肩に乗ってるモンを全部捨てても構わない。それで、アンタの身体がつくれるのなら。(言いながら、1歩進むごとに、男は温度が変わるのを感じた。ふたりを起点として、味気ない平原が極彩の花畑に塗り替わり、靴先で散らした花弁は蝶に変身して蒼穹へ舞い上がる。あの日見た夢に瓜二つの景色。それを見回すと、苦笑にも似た塩梅で僅かに眦を崩した。)これが夢だったって気付いた時、少し怖くなったよ。思った以上に人間を恋しがってた自分がさ。……生き残った以上は最後まで生きてやろうと思って、一銭にもならない遺産探しもこれはこれで楽しかったし、何より最高の「相棒」ができたからこれ以上は望まないと思ってたけど、やっぱりそうじゃなかった。 でも、アンタが消えるのも、違うんだ。……(低く凪いだ音調で本心を吐露して瞬きを打てば、眼前に広がるのは元通りの光景だ。夢は夢でしかない。そして「彼」は男の脳が見せる幻に過ぎない事も、男は知っている。それでも。)消えるなよ、イヴ。アンタはもう、俺の一部なんだ。たとえアンタがその事実を憎もうと。(あまりに傲慢な執着でもって、男は手を伸ばす。存在するかも分からない顔の輪郭に触れようとして。)
2022/1/6 00:15 [66]
Unknown
2022/1/6 23:47 [76]
っ。(咄嗟に。振り向かれた顔に息を詰める。彼が「それ」の顔を見たならば、顔の中身だけがすっかりくり抜かれたように透明になった姿が在っただろう。どうしたって人間には見えない姿だ。それもその筈、人間でないのだから当たり前なのだけれど。――断定が返ってくるのは、多分予期していた。欲しがるのは期待しているからだ。求めたものが、与えられたら嬉しいと思うから。でも今彼の言葉を受けて、齎された感情はただの喜色とは違っていた。)僕は僕だけど、……やっぱりアダムだから。君が望むのなら何にだってなれるんだ。でも、アダムと同じにはなれない。(一緒だけれど、一緒じゃない。最初から知っていたことだ。だからあの夢から醒めた時、やっぱりかと腑に落ちて、そして少なからず落胆した。夢は夢であって現実じゃない。それは詰まる話、自分は彼と同じ人間にはなれないと、突き付けられたような気がしたから。なのに。)…………、(なのに彼が、進もうとしていた道を戻して、自分との距離を縮めようとしてくるから。進む道はこっちじゃないのに、だから振り返らずに進めばいいとのまともな思いも確かに過るのに、戻って来る彼を否定出来ない。此処は現実で夢の世界ではないから、人間として出来上がらなかった「それ」が人間として成ることはない。分かり切っている現実を今尚も実感させられても、それでも。伸ばされた手は確かに触れていた。感じる温かさが、幻なのか錯覚なのか都合の良い勘違いなのかは、今は考えたくなかった。)何でそういう、……こっちはさぁ。アダムがどうやったら、僕のこと消えてもいいって思うかって、……未練残さないようにしてあげようって考えて必死なのに。(無感情気取って言葉を放ったのも、我儘みたいに欲張ってみせたのだって。それで彼が嫌気を感じればいいと、そうして何の心残りもなく消えてあげたいと思っていたからだった。彼は彼で、けれど自分は彼でもある。だから自分が彼を大事に思うのは当然のことで、所詮は幻でしかない自分がこんなに思い巡らせるみたいになっているのはイレギュラーでしかないのだろう。なのに、言ってしまった。吐き出してしまった。結局のところ、彼の前で本当のことを偽るなんてこと、出来やしないのだ。透明な顔はまだ浮かび上がらないけれど、)遠くの、…………西の方から。アダムと同じ、東を目指してるんだろう人が、来てる。(それが何人かまでは知らない。どうして自分が感じ取れたのかも。何も言わずに彼が東の楽園で巡り会うのが当然だと思っていたから、彼の方針に口なんか出さなかった。でももう、言わずにはいられなかった。)行かないで、(声は震えた。言葉にすれば一層酷く怖ろしいことのように思えて仕方なかったのは、自分が消えることではなく――彼の傍に居られなくなること。)こんなこと、言うべきじゃない。って、わかってるんだ。わかってるから、アダムの判断に任せたいって思ってる。――でも、(でも。もしも望むことが許されるのならば。)アダムが、僕じゃない人と一緒に居るのは、すっっっっごい嫌。(その言い方ばかりは、いつもの子供じみた響きを引き摺って。けれどそれだって執着であり独占欲でしかなかった。輪郭まで透明になった端から滴った水は、彼の手に触れただろうか。幻でしかないのだとしても、それは確かに、まるで人間のような生き物が瞳から初めて溢れさせた、生命の水だ。)
2022/1/6 23:47 [76]
(手のひらを撫ぜる細く柔らかな毛束の質感。陽光を浴びた金糸が持つ、ほのかな温もり。頭の丸みも、かすかな息遣いすら感じられるそれの洞のようになった面貌を、男は悲しげにも愛おしげにも見下ろした。あの奇跡の夢を除いて今までで最も真実味と説得力をもって感じられる彼の存在は、しかし同時に息を吹きかけるだけで消えてしまいそうなほど儚くも見えた。本当に肉体を与えることが出来たらどれほど良かっただろう。そうすれば、煙のように覚束ない彼の体を、二本の足でもって永久に地上に繋ぎ止めることが出来た。だが奇跡も人類創造も能わない無力な人間の手は、慰めに似た手つきで淡い金色の毛並みを整える風に動かすのみ。)……そんな寂しい事を考えていたのかい、きょうだい。(溜息を吐くと、男は初めて幼い友人の前で露骨に眉を顰めてみせた。相手の思惑にも驚かされたが、それに気付けずにいた自分自身の不覚にも無性に腹が立った。頭から手を離し、透けた頬に触れようと再び腕を伸ばす。ところが数秒後、彼の口から予想だにしなかった事実が暴露されれば――男は息を詰め、消失した顔を凝視しようとしただろう。瞠られた眼差しは不可視の表情をすり抜け、彼方に広がる地平線へ到達する。そして、その景色にピントがあった瞬間、男は平らな地表から人間の形をしたシルエットが現れるところを否応なしに想像していた。視線が釘付けになり、深い呼吸に合わせて肩が上下する。男にとっては永遠にも思えた無音の時間。それでも震える声が鼓膜を打てば、目の前のそれに視線を引き戻される。さらに驚いたのは、透明な水が光りながら輪郭を伝い落ち、己の手を濡らした事だった。目の縁から流れ出したであろう水。心の底から湧き上がってきた事が分かる、熱い水。)……、……、……。(口を噤む。今は顔も名前も知らないもうひとりの生存者。抱え込んでいた恐怖を解き放ち、行かないでと目の前で泣き縋る幻。喉の乾きも癒せないような微量の水滴が、その密度でもって己の心を引き裂く。だが時間は有限だ。西の地平線から人間が姿を見せる前に、今この場で答えを出さなければならない。)……――わかった。(暫くの後、意を決した風に顔を上げ、おもむろに唇を開く。鋭く光る眼差しが、向こう側を貫いた。)東へ行くのは……よそう。……代わりに、これを置いていっていいか。相手にも、まだ生きてるヤツがいる事を教えられるように。(後ろめたいようにも目を伏せ、足元に下ろしたのは中身が詰まったボストンバッグだ。乱暴に落としたわけでもないが、相応の重量を持つそれは鈍い音を立てて平原に沈む。くたびれた皮へ暫し視線を落とした後、まるで重力に逆らう風に顔を上げたなら、もうひとつ我儘を重ねよう。)目、見せてくれないか。
2022/1/8 11:00 [91]
Unknown
2022/1/8 19:19 [93]
(幻を生み出す人の心というものは、一体どのような構造で出来上がっているのだろう。彼から呼ばれる以外の名を持たない生き物は、彼によって作らされた幻影だ。だから知っている。彼はロマンを愛するがロマンチストではない。故に彼が当初より自分の存在を幻のそれとして理解していたことも、彼一人で退屈な日常の中に話し相手を探していたのだろうことも。彼によって作り出された幻だから、その存在意義なんて彼の意識一つで簡単に塗り替えられる。判断はいつだって彼が主軸で、優先でならなければいけなかった。それが彼から生み出された幻として在るべき形だろうから。彼という創造主によって作り出された生き物が、従うべきは彼しか居ない。故に今も、彼のことを考えて下そうとしていた道筋だった。果たしてこれは寂しいことに相応するのだろうか。考えても答えは出ない。)…………、……。(けれど答えを求めたのは幻の方だ。彼がまだ気付いていなかった事実を目の前に晒して、視線が幻を貫き、その後方、西の果てへ続くのを見る。落ちる沈黙の長さは、彼がその頭を悩ませた時間だろう。時間が経つだけ胸がぎゅうと締め付けられる心地にもなるけれど、これも幻でしかないことは、幻たる当人が知らない筈もなく。彼に縋るように零した涙も震える声も所詮幻でしかない。そんなもので彼を引き留める権利なんか、何処にも無いと知っていて、それでも求めずにはいられなかった。禁断の果実だと知っていて尚も、食さずにはいられなかった人のように。)……、僕に聞くことないよ。アダムがそうしたいって思うなら、そうして?(軈て沈黙の先、彼が下した判断に、小さく息が漏れて。沈むバッグの重さを横目に、口にするのはもしかしたらこれも”寂しいこと”。)アダム今、悪いなって思ったでしょ。それって僕に?(それとも、今はまだ姿の見えないもう一人にか。落とされた沈黙の長さに加えての彼の一言は、西から来る存在に、少なからずの未練があることを感じさせるには充分で。そんな彼に、行かないでと言ったから此方を選ばせてしまったのだろうと理解していた。告げなければきっと、彼は自分でなく、他の生存者と生きる道を選んだだろうから。そして。選ばせたからには、責任を取らなければならないだろう。――道を間違えた彼を、正しい方角へ導き直す責任を。)アダム。(彼の名を呼んだ幻は、向けられた我儘への返事をしない。その代わり、消えていない両腕を目一杯伸ばして、掌で彼の視界を奪うようにその両目の上を覆ってみせた。「三秒数えてて」と囁く声に、「見られるの恥ずかしいから」が続けば、それらしくも聞こえるだろうか。別に信じられなくたって良いことだけれど、これだって嘘のつもりじゃなかった。いち、にい、さん。彼が数えるか、数えられなくてもたっぷり丁度三秒間。過ぎた後に幻は声を出そう。)ありがとう、アダム。(選んでくれて。悩んでくれて。今日この日まで過ごしてくれて。手はまだ彼の視界を剥がれない。)僕ね、アダムと出会えて幸せだったよ。……大好き。(泣き笑うみたいな声になった自覚はあった。漸く掌が消えて彼の開けた視界に、望んだ目の形は疎か、その姿は失せて消え去っていただろう。正確には、そう見えるようにしただけで、此方の意識はまだ彼の傍にあるし、此方からは彼の姿だって見えているのだけれど。――偽ったつもりはないが、彼に告げていなかったことがもう一つある。此方に向かってくる人間が、恐らく女性であろうこと。こんな状況下で生き延びていたのだ、出会えば彼と彼女は互いに支え合える関係にだってなれるだろうし、幻では絶対に果たせてはあげられないことも叶えられるだろう。消え失せた幻が、彼に見えないながらに笑もうとして、それでも上手く出来なくて両掌で自らの視界を覆った。溢れた涙で、彼が幻に気付いてしまわないように。――叶うなら僕だって、君のイヴになりたかった。)
2022/1/8 19:19 [93]
アダム
2022/1/10 06:21 [113]
(「また主なる神はいわれた、『人がひとりでいるのは良くない。彼のために、相応しい助け手を造ろう』」。だが固く結び合った手が時として枷にもなりうる事を神は予期していただろうか。神は人に知恵の実を食べる事を禁じた。では神はなぜ人の手が届く場所に善悪の知識の木を植えたのだろうか。人の子らを、完全に制御可能な神の傀儡だとでも考えていたのだろうか? 神と人、親と子、それは男と幻の関係性に似ていた。絶対的な主でも、相手の意思ごと思いのままに操る事は不可能だ。たとえ、その相手が己自身であるとしても。)ハハ……自分を欺こうとするモンじゃないな。(胸の内に燻る逡巡を幻影に指摘されてしまえば、目を伏せて苦笑した。彼が容易に看破してみせた通り、提示された選択肢のいずれに対しても未練を捨て去る事が出来なかった男は、苦し紛れに選び取った結論が己らしくない事も自覚していた。一度すべてを失った時に噛み締めた絶望が、いつの間にか何かを捨てる事への恐怖を己の深層に植えつけていたのだ。名を呼ぶ音に顔を上げる。瞬間、二つの手のひらが視界に迫る。青い瞳を隙間なく塞いだ温かな暗闇。その向こう側から奇妙に明るく聞こえる声がして、男の唇が時間を刻む代わりにイヴ、と動いた。)おい―― (悪い予感が脳裏を過ぎり、宛てがわれた手のひらの内側で眉根を寄せる。咄嗟に彼の手首をとらえようと両の手を持ち上げたが、一歩遅かったか、指先は虚しく空を掴んだ。――闇が晴れる。眩しい光が男の目を焼く。彼の姿はなかった。元々存在などしていなかったかのように、それは忽然と目の前から消失していた。)イヴ。……イヴ?(立ち尽くしたまま、ゆっくりと首を回して周囲を見渡す。声は誰にも拾われない。風が草を揺らし、ザア……と潮騒にも似た音が立つ。そしてまた、静寂が訪れた。――「彼」は、消えたのだ。男自身の意思に反し、男自身の幸福を願って。その事実に実感が追いついた瞬間、一粒の雨が靴先を濡らした。)……アンタの目、綺麗だったよ。嫁にそっくりだった。(無邪気に煌めく翡翠を瞼の裏に描く。かつての最愛を、優しい記憶を思い出させる瞳に、男は最後まで弱かった。その事実を知ったら彼はどんな反応をしただろう。誇らしげに喜んでくれるだろうか。それとも、別の人間の面影を重ねるなんて、とへそを曲げるかもしれない。その答えを知る事も、男にとってはもはや叶わない。)心配するなよ、相棒。アンタはこれからも俺の中で生き続ける。ずっとだ。(何しろ、ふたりは元々一体の存在なのだから。脈打つ胸に手を当てながら、男は静かに目を開く。そうして上体を折ると、これも捨て損ねたボストンバッグを再び肩に提げ立ち上がった。)ごめんな、イヴ。(後悔、未練、愛情。様々な思いが複雑に絡んだこの情を、過去のものとするにはまだ早い。ならば全て背負って持って行こう。踵を返し、踏みしめるような足取りで再び歩き出す。もう後ろは振り向かない。目指すは東のかた、成れの果ての楽園。)〆
2022/1/10 06:21 [113]
Unknown
2022/1/10 23:50 [125]
(終わりの決まっていた始まりだった。彼が独りきりで居るからこそ限定で浮かび上がる幻影は、だから彼が独りでなくなる時に消失する。否、元々存在していないものなのだから、消えるという表現さえ可笑しな話であるのかもしれない。彼が誤った道を選んだ瞬間に、最早心は決まっていた。もしも彼が悩むことなく答えを出していたら、きっと幻は彼の目を塞ぐこともなかっただろう。消そうと思えば、この身体はいつだって透明になれた。だから此処まで彼の前に顕現し続けていたのはただのエゴだ。既に幻の存在意義は失われている。その証拠に、西から一歩、また一歩と、未だ姿を見せない遠くから、足音が聞こえてくるような気がしていた。)…………、(幻に本来必要の無い呼吸を止めることは難しくなく、胸が締め付けられる感触は幻だから嘘っぱち。でも、ならばこの寂しいと思う感情も、幻でしかないのだろうか。それとも彼が生み出した幻であるから、彼も同じように思ってくれているからこそだろうか。そうであったらいいと思う。終ぞ彼に再び見せることの叶わなかった両眼を見せていたら、のもしもは瞼の裏に描かない。代わりに彼がごめんを告げて歩き出すまで、黙って彼の声を聞いていた。幾ら開いた距離があっても、言葉を発すればきっと彼にはまだ届いてしまうだろう。届かせてはいけないと思うから、ゆっくりと目から剥がした掌の先、二度と振り返らないのだろうその背を眺める。ごめんじゃなくてありがとうが聞きたかったとか、結局人間には勝てないねとか、そんな思いだって当然のように湧くけれど。でも多分、知っていた。彼が幻の両眼に、何を見出していたかなんて、そんなこと。分かっていたからこそ見せたくない思いだってあったのだと、伝わりもしない幻の感情は、楽園へと至るまでのこの道に置いていく。幻が抱え込むには出過ぎた思いの数々を、彼が捨てられなかったのとは逆に、此処へ全て捨てて行こう。楽園はまだ先だ。西からの生存者もまだ遠い。彼の相棒で幻で、彼のイヴになり損ねた存在は、その足音立てず、足跡すら残さずに彼の後ろを付いて行く。真実その身が消えてしまうその瞬間まで彼の傍に。彼がもう一人と出会った瞬間に夢のように消えてしまうまでは、まだそれが許されていて欲しいから。――アダムはもっと、自分のことだけ考えてていいんだよ。過日に見た夢の終わり、吐き出した言葉をふと思い出す。願わくば彼のこの先の人生が、幸福に満ち溢れたものとなりますように。ああでも、これだけは言っておこうかな。)……アダムのばぁか。(負け惜しみみたいな、喧嘩の後に拗ねた子供みたいな。吹き抜ける風に掻き消されてしまいそうな微かさで、それでも確かに。最後まで優しくて、嘗ての最愛を大事にしていたその人の中に、生き続ける幻があるなら忘れずに覚えていて欲しい。人間が死ぬ前の言葉が印象的に残るように、幻の去り際の言葉だってきっと残るだろうと思うから。君の幻の「それ」は最後まで、君を愛していたよって。)〆
2022/1/10 23:50 [125]